[#表紙(表紙.jpg)] 老人力 全一冊 赤瀬川原平 目 次  ㈰  おっしゃることはわかります  物忘れの力はどこから出るのか 「あ」のつく溜息  食後のお茶の溜息  老人は家の守り神  老人力満タンの救急車  下手の考え休むに似たり  老人力胎動の時期を探る  ソ連崩壊と趣味の関係  中古カメラと趣味の労働  朝の新聞を見ていて考えた  眠る力を探る  東京ドームの空席  老人力は物体に作用する  タクシーに忘れたライカ  年に一度の健康診断  宵越しの情報はもたない  あとがき  ㈪  クリアボタンのある世の中  転んでもタダでは起きない力  物理的に証明された老人力  テポドンと革命的楽観主義  眠っちゃうぞ  コンニャク芋の里  田舎の力を分析すると  外房の離れ小島の老人力  老人力という言葉の乱れ  飲む食う書くの日記  背水の陣の目にかこまれて  お墓の用意  パリのホテルでバタンキュウ  宇宙の寄り道  入る自分が消えていくお風呂  最後に欲しいもの  あとがき  文庫版あとがき [#改ページ]  ㈰ [#改ページ] [#1字下げ]おっしゃることはわかります[#「おっしゃることはわかります」はゴシック体]  人間、歳をとると物忘れがひどくなるというのは誰しもあることで、えーと、何だったかな……、ということがよくある。よくあるというより最近はぐんぐん増えてきていて、 「えーと、何だったかな……」  とか訊くと、家人に、 「知らない!」  と言われたりする。あまり繰り返しているとたしかに「ご自由に」という感じにもなるだろう。  家の中だけでなく外に出ていても、仲間どうしで、えーと、何だっけ、というのをお互いに繰り返している。友人とか仲間どうしの場合、共通の知識が共通に忘れかけていることがよくある。何かのたとえ話をしようとしていて、ある人物の名前が思い出せず、 「えーと、ほら、あの、あれに出てた……」 「そうそう、あれでしょ。あの、ほら、あれ……」  とお互いに忘れてしまっている。でもちゃんと「あれ」だというのはお互いにわかっているのだ。わかっているのに、名前が出てこない。  ある時、相手は南伸坊君だったが、やはりそんなことを何度も繰り返していて、南君の方がつい、 「おっしゃることはわかります」  と言ったので大笑いした。  たしかにおっしゃろうとすることはわかっているのだ。お互いにわかっているんだけど、ただその名前だけが出てこない。  でも意味はわかっているので、話はつづけられる。つづくといっても名前は依然として出ないわけで、名前の出ない意味だけが、 「ほら、あれが……」 「そうそう、あれ、あの中で一人だけ、あれが……」 「あれ誰だっけ」 「いや、おっしゃることはわかります」  というので、それからはもう「おっしゃることはわかります」の連発で、大笑いがつづくのだった。  こういうのをぼくらでは「老人力がついてきた」という。  ふつうは歳をとったとか、モーロクしたとか、あいつもだいぶボケたとかいうんだけど、そういう言葉の代りに、 「あいつもかなり老人力がついてきたな」  というふうにいうのである。そうすると何だか、歳をとることに積極性が出てきてなかなかいい。  歳をとって物忘れがだんだん増えてくるのは、自分にとっては未知の新しい領域に踏み込んでいくわけで、けっこう盛り上がるものがある。  宇宙船で人生に突入し、幼年域—少年域—青年域、と何とか通過しながら、中年域からいよいよ老年域にさしかかる。そうするといままでに体験されなかった「老人力」というのが身についてくるのだった。  それがしだいにパワーアップしてくる。がんがん老人力がついてきて、目の前にどんどん「物忘れ」があらわれてくる。  老人域までこなくても、人間にはもともと忘却力というのが備わっているのだ。記憶力のエンジンがうんうんと唸りを上げて回っていると、そのシャフトの反対側では忘却力が放出されている。  クーラーだって、部屋の中は涼しいかもしれないけれど、窓の外の室外機からはどんどん熱気が出ていますね。  まあそんなわけで、最近はぐんぐんと老人力がついてきているのだった。      *  ぼくらでは、の、ぼくらというのは、路上観察学会のことである。つまり老人力の発見は、このサークル内でのことだった。その中のとくに藤森照信と南伸坊が第一発見者である。で、発見者はこの二人なんだけど、発見物はぼくらしい。つまり素材であるぼくの中のある何かに、この二人は老人力というものを発見したのである。  ある何か、といってもそれはたんにボケのことだが、ぼくはこの路上観察学会の中ではボケ老人と呼ばれている。もう還暦を迎えて、他のメンバーは全員団塊の世代であるから、年齢的に一回り違う。こちらが一足先にボケ老人になっても何ら不思議はない。異常なことではない。だからその呼称に対してとりわけ異和感はないのであるが、でも言う方としては、やはりちょっとまずいか、という気持もあるらしい。そこで合宿のある晩。  路上観察学会といっても数人のグループなんだけど、地方に足を延ばす時には合宿となる。たまたまその日は藤森、南が相部屋だった。話はいろいろに発展して、当然ながら仲間の悪口、誹謗嘲笑も含まれるのだけど、あのボケ老人がとか言いながら、ちょっと考えたという。  その二人にも少しずつ、もうボケの波は迫ってきている。名前を思い出せない、用事を思い出せない、日にちを思い出せない、ということが日常化している。  そうじゃなくても、やはり長老(ぼくはこの仲間内ではそう呼ばれている)をボケ老人と呼ぶのはちょっとまずいな、自分たちも無縁ではなくなってきてるし、みんなどうせボケていくんだから、もうちょっと良い言葉を考えよう。ボケ老人というと何だかだめなだけの人間みたいだけど、ボケも一つの新しい力なんだから、もっと積極的に、老人力、なんてどうだろう。いいねえ、老人力。  老人力。  ということになり、人類ははじめてボケを一つの力として認知することになったのである。  物忘れ・イズ・ビューティフル。  そういえば昔、昭和のはじめごろだったか、死のう団というのがあった。反政府とか革命とかを超えたやつで、もう死んでしまおうという団体。これは何だか凄いものだが、人に危害を加えないとはいうものの、ちょっとやはり過激でブキミである。  そこまでいかないにしても、忘れよう団というのはどうだろうか。いわば記憶力の死のう団。もう何でも忘れてしまおう。覚えるのはやめよう。老人力のパワー全開。いくらでも忘れ放題。 (画像省略)  この忘れるということに関しては、路上観察学会ではすでに「本駒込」という前例がある。物件の写真を撮って、それに場所と日時を付けるのが正しいのだが、これが時として難しい。写真は好きだから撮るけど、撮ってしまえばもういいというか、場所の記憶があまり好きではないのでつい忘れる。  スライド報告会の時。 「いいねえ、この物件。場所はどこなの?」 「えーとねえ、えーと……」  この「えーと」を連発するのはだいたいぼくと南伸坊。まずい、失敗したなあと思っているんだけど、もうすぱっと忘れてるんだからしょうがない。 「どこなの?」  それは南君の場合だったが、 「えーと、えーと……」  南君はもう完全に宿題を忘れた生徒になっている。 「町名ぐらい覚えてるでしょう」  と問い詰められて、 「本駒込!」  と言ってしまった。その前に珍しく撮影場所を覚えていたのが本駒込で、問い詰められたもんだから、そこにいっしょに押し込んでしまった。しかしその後も、 「えーと……、本駒込……」  という発言が増えて、どうも怪しいということになり、とうとう虚偽の報告が露見する。まあそれもしょうがないというので、以後は、 「えーと、えーと……」  の発作が起ると、外野席が、 「本駒込!」  と横槍を入れて、まあまあ助太刀というか「成駒屋!」みたいなもので、それからは撮影地忘却物件については「本駒込タイプ」ということになったのである。  文学その他の真面目世界で、最近は「癒し」という言葉が流行っている。この「本駒込」というのもいわば「えーと、えーと」の発作に対する、ひとつの癒しとなっているわけで(違うか)、いや違わないと思うが、とにかくそういう前例がある。  このケースでも考えられることだが、物忘れには違いないけど、そもそも覚えるのが嫌だ、ということがある。好みではない、記憶そのものが性に合わないというか。  ワインの味と名前との関係性をよく覚えている人がいる。年代の違いまで覚えていて、こと細かに指摘する。その場合もそれが好みであり、性に合っているのだ。覚えることが好きなのであり、忘れることが嫌なのだ。  ぼくなど、味はけっこう覚えているけど、名前をまるで忘れている。だからその覚えている味を名前で指摘できず、 「ほら、あの、たしか松本に行ったとき飲んだあのワインの……」  とか言っても、そんなのわかるのは自分だけだから、結局は覚えていない、ということになる。  だからワイン観察学会なんてあったら、ぼくは完全に本駒込だ。 「このワインはどこ?」 「えーと……、本駒込!」  となってしまって、いったい本駒込でワインを造っているかどうか知らないけれど、ぼくの中では本駒込がワインの一大産地となってしまう。一大産地どころか、世界のワインのほとんどが本駒込で産出されることになり、いったい貿易マサツなどどうなるんだろうか。  おそらく南君の中でも、ワインの生産量のほとんどが本駒込、という産業地図が出来上がっているはずである。ワインだけでなく、たとえば自動車も、世界規模の工場が本駒込に出来上がっているんじゃなかろうか。  自動車は、ぼくは嫌いじゃないので、プジョーといえばフランス、ベンツはドイツ、ローバーはイギリス、フェラーリはイタリアとか、工場は本駒込だけじゃなくて、多少分散した世界地図が出来てはいる。  いずれにしろ記憶があまり得意じゃないということがあり、それは既に老人力の温床となっているのかもしれない。だから老人力が発見されてもそれほど異和感はなく、反対にしかし覚えるのが好きな人の場合はどうだろうか。それまでぴっちりと世界に分散していたワイン地図などが、老人力の回転とともに端から少しずつ破れていって、破れた端からそれが全部日本の東京の本駒込に吸い寄せられる。  いや本駒込に限ったことではないが、老人力がもっと一般的に認知されざるを得なくなったアカツキには、本駒込に忘却記念碑が建立されるのではないかと思う。 [#改ページ] [#1字下げ]物忘れの力はどこから出るのか[#「物忘れの力はどこから出るのか」はゴシック体]  老人力はエネルギーではあるけど、かなり複雑なエネルギーである。簡単にそれを手にすることはできない。  たとえば山を登り、谷を渡り、崖伝いに歩いたりして、断崖を飛び越え、滝壺の底を潜り、洞窟を抜け出て、命からがらたどり着いた蒲団の上で、やっと手に入れることのできる秘密の力、とでもいうようなのが老人力というものだから、簡単にはいかないのである。  そもそも老人になるというのが、小、中、高、と学校へ行って、足りない人は大にも行くが、その間バイトをしたり、人によっては刑務所に入ったり、結婚したり離婚したり、倒産したり、夜逃げしたり、うまくいったとしても糖尿病になったり、肝硬変になったり、歩道橋を渡ったり、立ち食いそばを食べたり、立ち小便を人に見られたり、とにかくありとあらゆる苦労の末にやっとなるのが老人である。  あ、老人か、なるほど、恰好いいなあとかいって、五万円払って老人になる、というわけにはいかないのである。  そういう貴重な得難い老人力なんだけど、意外とみんなに嫌がられている。みんな物を忘れたり、よぼよぼするのが嫌だからである。  みんな物を覚えたい、できるだけ情報をたくさん欲しい、と思っている。  老人力の特徴としては物を忘れる、体力を弱める、足どりをおぼつかなくさせる、よだれを垂らす、視力のソフトフォーカス、あるいは目の前の物の二重視、物語りの繰り返し、等々いろいろあるが、それをみんな嫌がる。  とにかく世間的な風潮としては、物を覚えたい、体力をつけたい、足どりをしっかりしたい、よだれは垂らさない、視力ははっきり、お話は簡潔に一度で、ということをモットーにしている。いわゆるプラス志向ということだけど、プラスが全部プラスになるとは限らないのだ。  たとえばプロ野球の世界で老人力が必要とされている事実は、あまり知られていない。一見強そうな選手でも、老人力に欠けているのはなかなか一軍へ上がれない。  若者に老人力などあるものか、と思われるかもしれないが、じつはあるのである。本人も気がつかない形で、じつは体内で老人力は生きている。  プロ野球選手になるくらいの人は、みんな体力がある。ふつう以上に体力をつけた人でないと、プロ野球選手にはなれない。ではそのプロ野球選手の中でいちばん体力をつけたものがいちばんいいかというと、じつはそうでもない。  たとえば試合中、二死満塁の場面、監督がタイムをとって出て来て、バッターの肩に手をかけてうつむきながら、 (力を抜いて行け)  と言ったりする。これ、間違ってると思いませんか。力をつけにつけて、やっとプロ野球選手になったのに、ここへ来て、力を抜けといわれる。  でも事実はそういうことで、力を抜かずにリキんで打って内野フライ、万事休す、というのが多いが、うまく力を抜いて打ったら右中間まっぷたつで走者一掃の三塁打、ということがあるのである。  力を抜くには抜く力がいるもので、老人になれば自然に老人力がついて力が抜ける。でも若い間は自然には力が抜けない。意識して力を抜く、つまり意識して老人力を先取りする必要があるわけで、だから先述の二死満塁の場面、場内がいっせいに盛り上がったところで監督が出てきて、バッターを呼び寄せて耳許で何か言うのは、あれはじつは、 (老人力で行け)  と言っているのだ。 (わかりました)  と言って老人力を出せた選手は、スコーンとヒットを打ってランナーを返せるけれど、 (…………)  となったままよくわからず、相変らず老人力を無視してフルパワーで行ったものは、見事空振り三振、あるいは当りそこねのピッチャーゴロで、がっくりして二軍落ちしてしまうのである。  老人力をばかにしてはいけない。  力を抜くというのは、力をつけるよりも難しいのだ。力をつけるのだったら何も考えずにトレーニングの足し算だけで、誰でも力はつく。問題はその力を発揮するとき、足し算以外に、引き算がいるんだけど、これが難しい。  物忘れが難しいのと原理は同じである。  忘れようとして忘れられないことがある。覚えようとするものは忘れがちなものだが、忘れようとするものはなかなか忘れられない。人間の頭の中は必ずしも都合良くは出来ていないようで、いったいどうなっているのか。 (画像省略)  ぼくは子供のころ、記憶について考えたのだ。頭の中には覚えているものもあれば、いつの間にか忘れているものもある。それはどうやって分けられるのか。覚えたものは全部いつかは忘れるのだろうか。強い光の風景をぼうっと見ていると、目をつぶってもしばらくはその風景が、シルエットみたいに焼きついている。でもそのうちアイスクリームが溶けるみたいに、少しずつ消えていって、最後は何もなくなる。記憶というのもそういうものなのか。そうだとしたら、その消えるのはいつなのか。その記憶のアイスクリームの溶ける現場をちゃんと見ないと、どうも納得がいかない。  と考えたのが小学校の遠足の時だった。いや前から気になっていたけど、遠足で歩いている時は、退屈だから、そういうヒマな考えがふくらんでくる。みんな一列になって田舎の山道を歩きながら、脇につづく雑木のぐじゃぐじゃした繁みを見ている時だった。何ということもないまるで特徴のない光景だけど、こんなものでも覚えていられるのだろうか。どうも気になる。いまとにかく思い立ったので、このぐじゃぐじゃの繁みを覚えてみよう。こんなものをいつまで記憶していられるのか、いまから実験をする。  と心に決めて、それからもう五十年。ときどきそれを思い出しながら、まだ忘れていない。  心に焼きついた光景は、当然ながら覚えている。その焼きつけが強ければ強いほど忘れないものだが、この場合は事件じゃないから、心には何も焼きついていない。ただ頭で考えて、頭に打ち込んでみた。それがまさかここまでつづくとは思わなかった。  もうここまできたら、この人工の記憶は死ぬまで忘れないだろう。この先自分がご臨終の時、このまるで意味のない純粋記憶を反芻しているんじゃないだろうか。  でも本当にそうなるのかな、理屈ではそうなんだけど、しかしこの先、アノ老人力が待ち構えているのだ。  いまはまだその小学時代の記憶実験を、こうして反芻している。でもこの先老人力の強力なパワーが、まるで酸性雨のように降りそそいできて、記憶を端から溶かしはじめる。その時この人工的な特殊記憶が、その酸化作用に耐えられるのか。  話がだいぶそれたが、とにかく力を抜くのは難しい。抜こうとして、自分の思い通りに抜けてくれない。だから二死満塁のプロ野球選手も苦労している。  記憶も同じことだ。つまり覚えるのだったら、この小学生の例のように、無理矢理にでも努力によって覚えることができる。でもそうやっていったん記憶となったものは、努力によって忘れることはできない。  もちろんいつかは忘れる。それが現実である。だけどそれは「いつかは……」であって、本日ただいまより忘れる、というわけにはいかない。努力ではムリなのだ。意識してはできないことである。「いつかは……」という具合に、無意識のところでひたすら自然にまかすほかはない。  忘れたいのに、自分の力では忘れられない、というこの関係を考え過ぎると、ノイローゼになりやすい。頭の奥が苛々《いらいら》してくる。だからこれは真面目に考えてはいけない。こういった自家撞着《じかどうちやく》の関係に幽閉されて帰らぬ人となったのは大勢いる。健康によくない。  だから考えないのがいちばんである。「いつかは……」ということで放っておけば、そのいつかはの地平の彼方から、忘れ物の援軍がやってくる。ふらふらと、よぼよぼと、心地よい忘却の小波を立てながらやってくるのは、いわずと知れた老人力だ。  このようにして忘却願望は、必ず時が解決してくれる。  ムダな力を抜くというのも、ムダな記憶を抜くのと同じことで、時の解決にまかせればいいのだけど、でも現実的にはそうもいかないことがあって、プロ野球選手も苦労するのだ。  いやプロ野球に限らないが、たとえば二死満塁、たまには少し変えて一死三塁でもいい。外野フライで一点じゃないか。ヒットでなくただの外野フライでいいんだから、ふつうなら打てるはずだ。でも打席のA君は、どうもね、飛ばす力はあるんだけど、いつもリキんで内野ゴロ、ゲッツー、力を抜けといってもあいつにはムリだから、ここはひとつ時に解決してもらおう。  というので監督が出てきて、 「タイム」  と言って、それから五十年。  ということは現実にはできないわけで、やはり世の中は難しい。  だから常日頃からの老人力トレーニングが必要なのである。  無意識の研究というのは昔からおこなわれている。でもそれは無意識の中を探るといったもので、あくまで何かを得ようとするものだった。何とかして無意識の中に潜り込んで何か獲物を取って帰りたい、というもの。  老人力も無意識に関わるものだけど、これは反対なのだ。意識の中に整然と積み上げられた知識や記憶が、無意識との遭遇でぼろぼろと崩れ落ちる。東京はゴミ問題で大変だけど、人間の無意識はブラックホールみたいなものだから、その中にいくらムダな知識や記憶が投棄されても、どんどん無限に吸い込まれていく。その吸い込まれたところから、老人力が湧いている。  そうだ。老人力はブラックホールから湧いているんだ。  光さえも吸い込むという宇宙のブラックホールは、その存在を推測するだけで、それ自体を見ることはできないという。ただX線だったか何か、その吸い込まれる時に放射されるものがわずかに観測されるらしいが、老人力もそんなようなものだろう。  凄いなあ老人力は。人体のブラックホールから湧いているんだ。プラス志向などでは決してつかめないものである。  じゃあマイナス志向がいいのかというと、これが難しくて、プラス志向のまま早とちりしてマイナスに向かったものは、そのまま人生のどん底に落ち込んでしまう。プラスの悲劇といわれている。  ちょっと今回は理屈にからまってしまった。ぼくだって老人力発見の素材というか、イシズエの立場にあるといっても、まだ還暦になったばかりで理屈には弱い。 [#改ページ] [#1字下げ]「あ」のつく溜息[#「「あ」のつく溜息」はゴシック体]  全国の紳士淑女諸君。  奥さんというのはじつは総会屋じゃないですか。  いや全国の奥さんに他意はない。他意なんて何もないけど、最近の新聞報道で総会屋の癒着ぶりを見ていて、ああ、総会屋というのは株式会社の奥さんなんだなと、感じ入ってしまったのだ。  第一勧銀にも奥さんがいるし、野村證券にも奥さんがいる。奥さんはうるさい。うるさいし、怖い。弱みを握っている。握られているのがわかるからといって、手を振りほどくわけにもいかない。振りほどいたりしたらオオゴトになる。だからまあテキトーに、指輪でも買っておいたほうが、ムリなく収まる。  と考えるのはじつは真面目な社会人で、あれは奥さんじゃなく愛人だというのが、さらに進歩した考えである。奥さんも弱みを握っているけど、愛人はもっと弱みを握っている。愛人の存在そのものが弱みなんだから、これは強い。  奥さんの存在は、そのものが弱みというわけではないから、これは総務部だな。  総会屋の手を振りほどいたふりをして、じつは総務部にどんどん指輪を買い与えていたという事実があるわけで、どうも「総」の字のつくところが弱みの集積回路であるところのブラックホールで、あちこちに点在しているみたいだ。  総会がなければ別に総会屋というのは怖くない。有限会社というのは、あれはたしか総会なんてないから、総会屋に指輪を買い与える必要はないんだと思うがどうなんだろう。  癒着もしかし若いうちで、老人力がついてくると、癒着もだんだん解けてくる。でも夫婦なんてそれまでの癒着が長いから、癒着というよりはもう膠着状態に入っていて、おいそれと別離したり、自立したり、個人とか人権とか、そういう概念さえなくうやむやになっていることが多い。  老人力のみなぎった夫婦になると、奥さんというのは空気みたいなもの、ということがよくいわれる。株式会社にとっても、長く連れそった総会屋は空気みたいなものになるのだろうか。そう思っているところにいきなり手入れを食らって、空気じゃいけないというので大慌てしている、ということなのかもしれない。  イランにも総会屋はあるのだろうか。突然だけど。アラブ諸国というか、回教徒の、というより宗教の強い国で、男女の癒着した夫婦という形態を固く禁じていたりするところがある。  昔の共産国などは、人間と物が癒着する「所有」ということを禁じてたんだから、あれは本当は男女の癒着も禁じたかったのに違いない。  すみません。突然癒着の問題を持ち出したりして。  問題は老人力である。老人力というのは最近になって日本で発見されたエネルギー資源であるが、おそらく相当な量がこの国には眠っているものと思われる。  これまで老人力は恥しいエネルギーだと思われていた。だからみんな見て見ぬふりをしたり、ちょっとそのエネルギーが出たら隠したりしていたんだけど、しかし「老人力」という正しい名前が発表されてからは、そうか、隠さなくてもいいんだ、自然のパワーなんだ、という流れになってきている。  読者の声というのを「ちくま」編集部が一つ知らせてくれたので、ちょっとご紹介しよう。 [#ここから1字下げ]  新連載の「老人力のあけぼの」を読み、ガハハと笑ってしまいました。私はまだ(もう)30代後半ですが、最近言おうとしている言葉が見つからないことが多くあり、友人同志で「ボケた」「ボケない」と言い合っています。でもこれからは「老人力がついてきた」この言葉を、みんなに広めたいと思います。赤瀬川さん、万才! がんばって下さい。 [#ここで字下げ終わり]  千代田区にお住まいの女性である。三十代後半でもうみずからの老人力を認めるというのは、ずいぶん早い。最近は暴力事件にしても性的事件にしても低年齢化がいわれているが、老人力の低年齢化ということもあるらしい。  昔から「早熟」の人というのはいたけど、この場合は「早老」である。ちょっと語感がまずいか。  いやマジメな話、いまは早老の力が求められている時代なのだ。昨今の若者による残虐事件の数々などを見るにつけ、 (いまは老人力が不足している)  とつくづく思う。  若くして世間に反抗するのは成長の証しでもあろうが、その中に一滴もボケがないのだ。だから硬直ばかりしていて、笑ったりがない。笑うといえば人を嘲笑《あざわら》うことしかできない。  やっぱり人間少しはボケなきゃいけませんね。コンピューターもその辺は少し気がついてきて、ファジー理論など出てきた。最近ではカオス理論である。これはまあコンピューターなりの老人力というものだろうか。これでコンピューターも少し寿命が延びた。  歳をとると老人力が出てくるのは当然だけど、それをしかし若いうちに少し先取りするのが早老である。早老は人間の智恵だと思うがどうだろうか。  ぼくもけっこう、自慢じゃないけど早老だった。 (画像省略)  老人力の一つに溜息がある。疲れたときなど、椅子にどっこいしょと坐りながら、 「あーあ……」  と溜息をつくあれだけど、そうだ、「どっこいしょ」も老人力のほとばしりですね。  自分ではまだ若いつもりでいても、いつの間にか体内に老人力がふつふつとみなぎっていて、椅子に腰を下ろしたときなど、 「あどっこいしょ」  という言葉が漏れ出る。この場合ふつうの「どっこいしょ」はまだ力仕事の意味合いがあるけど、その頭に「あ」がつくと、これはもう老人力と見て間違いない。  うちの総会屋もこのところ、外出して帰ってきて荷物を置いて坐ったときなど、 「あどっこいしょ」  と出るようになり、出たあとついやはりにやっと笑う。おそらく本人も「あ」のところに老人力を感じているのだ。 「あーあ」となると、これは老人力としてはもっと積極的である。「あどっこいしょ」の場合は自然に出る、出てしまったというので情状酌量の余地があるのだけど、「あーあ」はむしろあえて出したというような、どちらかというと確信犯的な味がある。  その味が気持よくて、ぼくらはよく「あーあ」という溜息を放出していた。  ちょうど二十代のはじめのころで、装飾屋に勤めていたのだ。アルバイトの延長で。そこにH君というけっこう肥満体の友人がいて、よくいっしょに歩いていた。肥り気味だけあって、とにかくよく食べる。ぼくは胃にハンディがあるのでパワーでは負けるが、貧乏だから食べるのは好きだ。二人いっしょに歩きながら、H君は肥満の分だけ疲れるのか、何かと「あーあ」の溜息をついていた。ぼくはぼくで、肥満ではぜんぜんないけど、気分的に疲労に敏感というか、ついやはり「あーあ」という溜息が出る。  その装飾屋というのがちょうど湯島天神の筋向いで必ず坂道を登る。だらだらと登りながら、信号待ちで立ち止るときなど、つい二人いっしょに、 「あーあ……」  というのである。その辺の呼吸を知ってからは、お互い積極的に「あーあ……」という溜息を、合言葉みたいに出すようになった。  坂を登って「あーあ……」、階段を登って「あーあ……」、ドアを開けて「あーあ……」、自分たちの机の前に坐って「あーあ……」。  その部屋はレタリングの部屋で、隣が炊事場でお茶の世話をするおばさんがいる。ぼくらがだらだらと歩いて「あーあ……」とばかりやっているので、さすがにそれが気になってか、 「まったく若いのに、しょうがないわね。もっと元気を出しなさいよ」  と叱られる。まあそれは当然だろう。だから叱られるとはいはいと聞きながら、おばさんが行くと、二人揃って、 「あーあ……」  となる。  これが気持いい。じっさいに疲れてはいる。だからつい溜息をつくんだけど、溜息なんて本当は情ないことで、若者にふさわしくないといわれている。だからふつうは自粛している。  でも自粛のエネルギーって、ばかにならないんですね。疲れているのに疲れを出せないというのは、腸内異常発酵みたいなもので、それに自粛のエネルギーも加算されて非常によくない。 「あーあ……」  と溜息をつくと、そういう疲れがどーっと出ていく。はじめの「あーあ……」はまあ自然に出たものだとしても、そのあともう一度「あーあ……」とやると、これはもう確信犯というか、積極的な溜息となって、本当にどん底の疲れが出ていくみたいだ。  つまりじっさいの疲れ以上に溜息をつくのである。そうすると溜息が疲れを追い抜いていく。疲れの重圧がなくなってくる。  溜息にはもともとそういう確信犯的な性質があるんじゃないか。溜息だから息なんだけど、自然に漏れるというよりは、あえて出す、一種の言語機能が秘められてあるのである。  自然に漏れるのは、溜息よりはむしろ吐息ですね。同じようなものかもしれないが、こちらの方が長い石段をせっせと登って、やっと上まで登り着いて、そこで腰を伸ばして、 「ほっ……」  というふうに、これは純粋に物理現象として、いわばおならのように出てくる。その、 「ほっ……」  に比べたら、溜息の、 「あーあ……」  というのは、やはり積極的な、早老の力というか、老人力への意欲のようなものが感じられる。  どうも「あ」というのが怪しいですね。「あどっこいしょ」と同じで「あーあ」の頭の「あ」がどうも怪しい。本当はただ「あー」の嘆息でいいところを、頭にもう一つ「あ」をつけて「あーあ」とやって、それでもって老人力を手に入れようという動きがあるんじゃないか。 「やれやれ」もそうですね。いろいろあって苦労したけど、まあ、 「やれやれだ、これで何とかなるぞ」  とやればふつうに持続する積極姿勢なんだけど、頭に「あ」をつけて、 「あやれやれ……」  となると、がぜん老人力としての色合いが濃くなってくる。  老人力は頭の「あ」に隠されているんだろうか。  よしよし、と可愛がるのはまあふつうのことだとしても、 「あよしよし……」  となると、たんなるよしよしに老人力のターボがついて、がぜんいいかげんさが光ってくる。いいかげんさというのは、老人力の中に含まれている一つの重要な要素なのである。 [#改ページ] [#1字下げ]食後のお茶の溜息[#「食後のお茶の溜息」はゴシック体]   [#歌記号、unicode303d]ろーじ、ん、ろーじーんー、    がいかはあーがーるー……  老人力を歌い上げるにはこれがいいと思う。昔の日本の軍歌である。   [#歌記号、unicode303d]轟沈《ごうちん》、轟沈、    凱歌は上がる……  というあの節である。右手を振り振りこれを歌うと、老人力の大きさ、老人力の太さ、老人力の堂々さかげんというのがじつによく染み出てくると思う。  ちなみに轟沈とは、戦時中の戦争用語。砲弾が見事敵艦の急所に命中して、見る見るうちにどーんと沈んでいくのを轟沈という。これに対して撃沈というのがあり、これは重いパンチの一発というのではなく、砲弾が次々に命中して、連打を浴びながら沈んでいくのをいうんだと思ったが、そのころぼくはまだ小学校の低学年だったので正確ではない。  たしか一分間以内に沈むのが轟沈、それ以上時間がかかったのは撃沈とか、いちおうの規定があったようだ。  まあ轟沈にしろ撃沈にしろ、巨艦が大海にゆっくりと沈んでいく。それを老人力の歌にした場合、沈むのは敵艦ではなく自分の方である。老人みずからが堂々たる凱歌を上げながら沈んでいく。それがやはり老人力の卓越したところで、ヤングパワーやその他の並のパワーとは違うのだ。  軍艦は鉄で出来ている。だから当然、いずれは沈むのである。発泡スチロールで出来た軍艦ならいつまでたっても沈まないだろうが、でもそれは軍艦とはいわない。発泡スチロールでは戦争できませんよ。  いや反戦主義者には申し訳ないが、人生にはあちこちに戦いが待ち受けている。それを避けて通ろうとしたんでは人生が成り立たない。あくまで反戦主義で、人生のすべてを談合で貫き通していくのもそれはそれで見識というものであろうが、でもやはり戦ってこその人生であり、勝ったり負けたりしながら、幾多の凱歌を上げつつ、ゆっくりと大海に沈んでいくのが老人力というものではないだろうか。      *  ぼくはこの間財布を忘れた。お、来たなという感慨があった。  ぼくはもともと気が弱くて臆病な性質だから、財布を忘れて家を出る、なんてことはまずない。家を出る前にズボンやシャツを着替えたあと、財布、手帖、時計、眼鏡、鍵、ハンカチ、筆記具、といろいろ点検しながら、財布はその筆頭だから、忘れるなんてことはまずなかった。  だからその日、小田急線から井の頭線、山手線、と乗り換えていきながら、その車中でふと気がつき、 「…………」  という感じで目が点になり、それが点々とつづいて急に世の中が変ってしまった。  本当は恵比寿で降りて、そばでも食べて、タクシーで高輪へという予定だった。M学院大での講演、その前に別件のインタビュー、という予定だった。その予定がしかし財布がないとなると一気に崩れた。そこまではポケットの小銭で来たのだけど、そばどころじゃない。タクシーもムリ。歩きとなれば恵比寿じゃなく五反田まで行って、地下鉄一区百三十円で高輪台から徒歩十五分。  ポケットにぎりぎりその地下鉄代があってほっとしたが、お昼抜きだ。  そんなことがあったにもかかわらず、その二、三日後、電車で都心に出ての帰り、車中でまたふと、財布忘却に気がつき、 「…………」  と目が点に。この時は帰りの電車。とりあえず一区間だけ買って精算のつもりが、ない。改札で、 「あのう、財布忘れて……」  と言いながら、学生のころの無賃乗車の言い訳を思い出した。駅員に、 「いいですよ。ちょっと名前だけ書いといて下さい」  と出されたノートには、財布忘却者の名前が日時金額とともに、ぎっしり書きこまれている。一人何円くらいか知らないが、けっこういるんだ。ぼくも恥ずかしながら一筆書いて駅を出してもらった。三百いくらだったかをすぐ払いに行ったが、考えたらあのノートは、一種の老人力名簿じゃなかろうか。  こうして二度も財布を忘れて出かけてしまって、しかし自分が何だか堂々とした大人物になってきたようで満足している。小人物はいつもこせこせと忘れ物をしないように努力している。でも大人物になると、財布ぐらいはぽーんと忘れる。金なんていいじゃないか。  この辺の論理の整合性についてはいろいろとごぎろんもおありでしょうが、そのうち鍵や手帖もぽーんと忘れるようになるんじゃないか。上衣もぽーんと忘れて、ズボンもぽーんと忘れて、パンツもぽーんと忘れて、それで電車に乗っていたら凄いと思う。大人物というより、もう人物を超えている。  別にそこまでなりたいわけじゃないが、老人力というのはそういう大人物のような要素をぽーんと与えてくれるのだ。人間の、長い社会生活で培われてしまったコセコセ力を、少しずつ殺ぎ落してくれるような気がする。  最近のパソコンとかインターネットとか、ああいう社会的な道具は非常にコセコセしていますね。作業の順番ばかり気にして、間違いのないようにとか、そういう神経ばかり使っている。あれは社会の道具だから仕方ないけど、人間の方は、ああはなりたくないですね。でも道具というのは人間に伝染《うつ》るんです。  そうやって感染してしまったコンピューター的なコセコセ力を、いつの間にかさあーっと流してクリーニングしてくれるのが老人力なのだ。      *  忘却力というのがどうしても老人力の代表として語られるのであるが、それにつづくものとして溜息があることは前回ちょっと考察したけど、まだ考察しきれていない。いま少し考察したい。 (画像省略)  その前にちょっとここで、老人力というのはひょっとして日本独自のパワーなのだろうかということ。  つまりマイナスのパワーというのは、もちろん論理的帰結としていうことはいうけど、果して西洋文化圏で本当に考えられたり感じられたりしているのだろうか。  ぼくたちは食事のあとお茶を飲む。この習慣は世界中どこでもあるようで、緑茶や紅茶やコーヒーの違いはあっても、食後にはゆっくりとお茶といわれる液体を飲んでくつろぐのである。この食後のくつろぎの中に老人力の温床があると思うが、どうでしょう。  食事というのはじつは大変な作業で、外界のものを体内に取り込むわけだから、美味しいから夢中になっているとはいえ、お腹にとってはほとんど重労働だ。  だからそれが終り、箸を置いてお茶となるとホッとする。口の中を舌の先でいろいろと整理整頓しながら、お茶を一口、ゆっくりと飲み込んで、 「……あー……」  と溜息をつく。  溜息である。こういうときの溜息って老人力ではないか。  お茶だけでなく、ビールでもいい。ビールは食後ではなくむしろ食前だけど、でも一日の仕事の終った後がほとんどで、すべて終ってやれやれというので、とりあえず一杯、一口飲んで、 「……っあー……っ」  と息をつく。かなり積極的な溜息である。ここにもお茶と同じように老人力が潜んでいるんじゃないか。  というので考えるのは、外人はビールを飲んで溜息をつくのだろうか、という問題である。  以前ロンドンのパブに行ったとき、トレンチコートを着たビジネスマンたちがみんな立ってビターを飲んでいたけど、 「AA……」  というような、溜息的な音声は聴かれなかったと記憶する。  まあこの点は細かい地道な研究報告が待たれるわけで、お待ちしております。  ビールよりもはっきりするのが先述のお茶で、ぼくらは当然のように、一口飲み下したあと、 「あー……」  という。やれやれ、飯がうまかったし、このお茶で本当にホッとするというような、腹の底からの溜息をつくけど、西洋人が食事のあとコーヒーを飲んで、やれやれ的な感じで、 「AA……」  なんて溜息をつくだろうか。  どうも想像できないのである。西洋人だって挫折したり、恋に破れたり、人生に絶望したりしたときには溜息をつくだろうが、食事のあとのお茶ぐらいで、 「溜息なんかつきませんよ」  といわれるんじゃなかろうか。  そこのところに溜息の質の違い、つまり老人力の含有の有無があらわれていると思うのだけど、どうでしょう、だめでしょうか。  よし、じゃあ決定的な溜息。  お風呂である。  とくに銭湯がいい。最近は銭湯が一つ二つと廃業して寂しい限りであるが、湯泉地の大浴場でもいい。服を脱いでパンツも脱いで、タオル一つで浴室に入り、ざっと体を流したあとお湯につかる。 「あー……」  これは誰でもそうなるんじゃないか。体の底からの溜息。  とくに昔の銭湯ではお湯が熱かった。水でうめようとしても浴槽には町内最古老のお湯奉行が身を沈めていたりして、水の蛇口をひねろうものなら、 「ジロリ」  と睨まれる。  熱いお湯に入るのが男じゃ! というわけではないけど、とにかくそれが美徳とされていて、そうすると足先から腰、腹、胸、肩と、ゆっくりゆっくりお湯につかっていきながら、 「あ……、う……、う、うー……、お……、おー……」  という具合に、しっかりとした紛れもない溜息、老人力百パーセントの溜息をつくのだった。  西洋人にはそれができない。銭湯がないのである。気の毒なことである。  西洋人だって入浴ということはするけど、あれはシャワー主体だ。体を洗うという「作業」中心である。バスタブはあるけどあれはシャワーの受け皿というもので、日本のお風呂の感覚とはちょっと違う。  若い女性の場合はあのバスタブをシャボンの泡で満たして、その泡につかって片足を上げたりするそうだが、あの時、 「あ……、あ……、あー……」  という溜息をつくのだろうか。ぼくは昔の映画でしか拝見したことがないのでうかつなことはいえませんが、溜息はないと思う。  でもあれでもし老人力含有の溜息が出ているとしたら凄い。  と考えてくると、老人力含有の溜息というのは、案外これは日本文化圏に限られてのことなんだろうかと思われてくるのだ。  溜息というのは奥深いものだ。老人力を探る上ではまだまだ、何度も溜息をついてみる必要がある。試しにホッと溜息をついて、 「どうかされたんですか」  と心配されて、 「いえいえ、テストです」  と答えて通じるかどうか、難しい問題である。 [#改ページ] [#1字下げ]老人は家の守り神[#「老人は家の守り神」はゴシック体]  世の中はこれからどうなるのだろうか。文明の発達はいいのだけど、すべてが計算され、管理され、平均化され、ツルピカになり、そうなるとこの先にあるのはもう退屈だけだといわれている。  いままで文明の発達を望んで、民主主義を望んで、自由を望んで努力してきたのに、その望みが実現した先に待ち構えていたのは退屈であるとなると、いったいどこで間違ってしまったのかと考える。  望みをもつということがそもそも間違いだったのだろうか。  でも人間の世の中なんていつも不完全なものだから、そこを何とかしようと望みをもつ。そして努力して、運にも恵まれたりすれば、望みが叶い、そうすると退屈地獄、いや退屈天国に落ち込むんだとなると、人生とはいったい何なのかと、考えざるを得ないのだ。  あまり哲学をすると嫌われるけど、しかしいまの世の中がツルピカの退屈に向けて進路を取っているのは間違いない。いったいこの先どうすればいいんだ。  という時に、老人力が発見されて、この発見は人々に大喜びで迎えられた。  必ずしも望んだわけでもないツルピカ退屈気分が、老人力によってぼろぼろと削り取られて、「本駒込の天国」があらわれてくる。  老人力なんてもともとは冗談なんだけど、老人力と聞いたとたんにみんな一気にそれを理解して、冗談じゃなくなるのである。  いやあくまで冗談なんだけど、冗談を保持したまま、冗談じゃない世界に突入していくという、ちょっと何というか、そういうふうなのである。  そういうとても複雑系の冗談を、みんな一気に獲得する。でも根が冗談という人はなかなか少いもので、日頃の暮しはマジメ系で過すのが基本となっているのだから、理解はしたけど応用がまだ、という場合が多いのである。  その点はぼくも同じだから、ときどき老人力という言葉を外に出してみては、その言葉の生態系を観察して勉強している。  この間路上観察学会で東海道五十三次を歩こうということで、日本橋から始まって静岡まで行った。各自何か所か分担して歩くんだけど。ぼくはたまたま掛川の先の袋井を歩いた。  路上観察というのは基本的には目の前勝負なので、どこを歩いても同じようなものだが、でもその袋井で、いい立看板があった。 「老人は家の守り神」  ペンキで堂々と大書されている。いいなあ、この言葉。小さな町内会の集会所みたいな小屋の前にあったんだけど。何だかちょっと感動してしまった。  ふつうこういう町角には、挨拶をしましょうとか、交通規則を守りましょうとか、当たり障りのない標語が書かれているものである。それがいきなり「老人は家の守り神」とくると、感動する。  その言葉もさることながら、その筆勢がまた素晴しいのだ。ブリキに白塗りの立看の上に、筆というよりは壁塗りの刷毛のような、太い線と細い線がはっきりと違う穂先をものともせず、その筆なりに堂々と書き切っている。ちょっとペンキが垂れたりして、それがまたなかなか大雑把で気持がいい。  というので、それを路上観察とは別にエッセイに書いた。  N経新聞の日曜版に毎週エッセイを連載していて「奥の横道」というタイトル。そこにこの立看の写真を一点添えて、老人となれば当然老人力の問題として書いたのだった。  すると。  袋井市から電話が掛かってきた。袋井市の教育委員会だという。何か怒られるのかと思ったら、老人力について講演を一つ、ということなのでホッとした。  そのエッセイを読んでのことで、ここでも老人力という複雑系の冗談が、すとんと冗談を超えたのだった。  静岡理工科大学での一日体験入学という、いわゆる生涯学習というもので、来ている人は、大人の、それもぼつぼつ老人力のつきはじめている人、というのが多かった。  ぼくはまずやはり路上観察のスライドをいくつか、笑えるのを選んで持って行って映した。老人力と直接関係はないけど、やはりカメラを持ってアテもなく路上をぶらぶらという、一種の徘徊老人的なフィーリングの中から老人力は発見されたのだから、その同じ道をたどってもらうのがいちばんである。  会場のステージには、その「老人は家の守り神」の立看板の実物が持ってきて飾られているのでびっくりした。N経新聞に出した写真を見て、これだ、というので町内の路上から一時取り外してきたらしい。  現物とは凄い。路上でめぐり会ったときには現物にすなおに感動したけど、それがこういう晴れ舞台に出てしまって、路上だって晴れ舞台だけど、まあしかしそんなに注目なんてされていないものである。それが一日体験入学のステージの上だから、しかも近代設備の階段教室の焦点の結ばれるところだから、何だかその看板が大先生みたいに見えてしまった。  聴衆の中にはその看板をじっさいに書いた人とか、その時の町内会長さんなども来ているといわれて、また何か怒られるんじゃないかとプレッシャーだった。いつものように冗談なんか言っていいんだろうか。  でもその前に係の人から聞いたその看板の由来が面白かった。二、三十年前その町の近くに空港が出来ることになり、反対運動が盛り上がった。日本中よくあることで、その最たるものが成田空港で、あれは出来てしまったが、この袋井では反対運動が勝って空港を阻止したのだという。  その時さあやるぞとたくさん作った立看板が、全部使い切らぬうちに勝利したので、白地のまま残ってしまった。これはもったいないというので、では何か有意義な言葉を書いて町内に立てようと、それでこの「老人……」が書かれたのだという。  だから同じ看板が町内のあちこちに立っていますよということだった。いいじゃないですか、この話。 (画像省略)  さて会場ではスライド、話、スライド、話、とつづいたんだけど、全体にやはり笑いがちょっと控え目だった。こういうところに来る人は気持の基本がマジメだから、みだりに笑ったりしてはいけないと思っているフシがある。でも路上観察のことというのは笑ってこそいろいろ開けてくるもので、そこのところのスレ違いがはじめのうちはちょっと困るのである。  話しながら喉が渇いてきて、卓上の水差しの水をちょっと飲んだ。一人でしゃべりつづけていると喉が渇いてくるもので、これも老人力によるものかもしれないが、コップに注いでぐぐーっと飲んだら、ちょっと気管支に入ってむせてしまった。 「ごほん、ごほん……、うっほん……、う……、うっほーい……」  とか咳込んでしまって、これはもう明らかに老人力だ。その間聴衆はみんなぼくの咳込むのを見守っている。何だかわざとやったみたいで、 「これは……うっほん……、別に……、うっほん……、老人力の話だからといって……、うっほい……、わざとやった……わけでは……ありませんが……、うおっほん……」  と咳込みながら言い訳をした。言いながら、しかしこれはますます老人力だと思いつつ、そうか、次にまた老人力のことを話すときには、わざとこれをやってもいいかな、なんていろいろ考えた。  しかし老人力をテーマに講演するとは。しかも行政や大学というオオヤケの場である。老人力というのはあくまで冗談なんだけど、もはや冗談じゃないのだ。いやあくまで冗談なんだけど、もはや冗談じゃない。これは何度言ってもきりがないが、「あくまで」と「もはや」が両立しているのである。  一方そのころ、路上観察じゃなくライカ同盟でも新しい老人力が発見された。これは写真家T梨豊、彫刻家A山祐徳太子、それとぼくの三人の同盟で、みんな還暦を過ぎている。  そこのところで既に老人力の漂う気配はあるんだけど、この三人で撮影旅行に出かけた。カメラはもちろんライカ。電子的なオートマ機構の入っていない旧式の機械カメラで、でも撮る感触はじつに良い。  A山さんはM2、T梨さんはM6とR6、ぼくはM4と旧タイプの㈽f。で三泊四日、大分を撮り歩いて帰ってきたんだけど。  帰ってラボから上がってきたのを見て、おりょ?  モノクロネガで撮ってベタ焼きにしてもらったんだけど、半分くらいが真っ黒。おかしい。撮っている時は何も感じなかったのに。この手のカメラはキャップを付けたまま撮ったり、知らぬ間にシャッターボタンを押したりして、真っ黒画面が出来やすいことは確かである。でもこんなに、半分以上も真っ黒というのはちょっとおかしい。  でもちゃんと写っているのもあって、そこが怪しい。真っ黒画面をよく見ると、端だけ縦に細く露光しているカットもある。そういうのを見ながら、はーん、とわかってきた。このときは快晴で、日中は高速シャッターを切ることが多かった。その時シャッター幕のスリットが開ききらずに走行していたらしい。生き残ったコマは、おそらく1/60秒以下ぐらいの遅いシャッタースピードのようだ。  結局フィルム九本撮って、全部がその状態だった。ショック。  その後それぞれの写真を持ち寄っての反省会があり、ぼくのこの結果を報告すると、A山祐徳太子に、 「凄いね、原平さん、老人力がとうとうカメラに出た」  と言われた。 「え?! そうか、フィルムが真っ黒ということは記憶が真っ黒」 「そうだよ、これ凄い、カメラも物忘れをするんだ」 「ボケ老人、ボケライカ」 「ライカだもんね。そうだ、ライカは老人力のカメラなんだよ」 「それは凄い。ライカの老人力」 「AFでちゃんと写るカメラなんて、老人力がゼロだよ」 「そうそう。ライカともなると、もう融通無碍《ゆうずうむげ》、忘れるものはさっと忘れる」  ということになったのである。  この発見は凄い。ライカは高級というだけでなく、老人力を身につけていたんだ。  本当をいうと、素人のくせにライカなんか持って、という多少の後ろめたい気持があったのだけど、もうそんなことはない。これはちゃんと自分のカメラだ。  ともにボケ味が素晴しい。  ライカは、いま一般に使われている35ミリ判カメラの元祖、父親である。もう定年はとっくに過ぎているから、老人力がついているのは当然といえば当然である。  わかるなあ。ライカの老人力。  老人力のライカ。  だから老人力の乏しい人には、ライカの価値はわかりにくい。いまは電子技術が進んで、プラスチック技術も進んで、軽くて使いやすくて便利で安いカメラはたくさんある。それを使えば写真なんて簡単に撮れるのに、何を好き好んでライカなんだ。  でも近年になってもライカ人気は衰えず、むしろますます盛んで、若い女性も古いライカを首から下げて街を歩いたりしている。その女性がどういうつもりかはわからないが、やはりライカの老人力に引かれてのことなんじゃないか。とぼくは思うのだけど。 [#改ページ] [#1字下げ]老人力満タンの救急車[#「老人力満タンの救急車」はゴシック体]  路上観察学会は老人力発祥の地である。発祥の会というか。  路上をぶらぶら歩いて、ぶらぶら物件を見つけて、ぶらぶら写真を撮るという、そういうぶらぶら感覚の中から老人力は発祥した。  その路上観察学会でこのたび、東海道五十三次を歩いたのである。東京は日本橋にはじまり京都三条大橋まで、各宿場ごとにぶらぶら観察して歩く。  じつは春に二回合宿を敢行し、夏はハードなので避けて、この秋にもう一回やって京都まで。  この秋の第一泊目は桑名。その手はくわなの焼蛤で、その手とはどういう手なのかといいつつ、桑名では焼蛤のほかに蛤のおすまし、蛤の天麩羅も食べた。  そして眠った。ホテルではなく旅館。今回は三人相部屋である。  藤森照信、南伸坊、そしてぼく。  夜中の二時半。二人の鼾がぐーぐー聞こえる。もう熟睡している。このお二人は老人力の世界初の発見者である。前に合宿でこの二人が相部屋となった折に、その睡眠前のおしゃべりの中で、はじめて老人力という言葉が登場したのだった。  発見されたのはぼくである。ぼくは老人力の具現者ということだった。だったと過去形で書くのは、当時はまだこの会のメンバーで老人力の顕著なのはぼく一人だったからだ。しかしその後急速にメンバーも歳をとって、みんなが老人域に近づいてきて、とうとう老人力という概念が発見されたのだった。 (画像省略)  そんなわけで桑名の夜の闇の中で、老人力発見者二人の鼾が聞こえるわけだが、具現者であるぼくの人体の内部がどうもおかしい。腹部で何か鈍痛がするのである。ふつうは眠ったら朝まで行くのが健康というもので、途中で起きるとしたらビール飲み過ぎのトイレとか、そのついでに口が渇いての水分補給とか、せいぜいそのくらいだ。  鈍痛はよくない。  これはいずれ下まで行くな、と思った。腹部に何かが発生していて、それが人体下部出口より排出しなければ治まらない予感がする。  そういえば夕方|柘榴《ざくろ》を食べた。五十年振りくらいだ。子供のころ庭の柘榴を食べて、それは酸っぱいだけでつまらなかった。ところがそれから五十年、きのうの夕方藤森会員が路上で収穫してきた柘榴を食べたのである。この会員は路上観察の折に果樹などを見つけると必ずちぎって食べる。この日は南会員と二人で歩いていて、ちょうどまた柘榴の季節で、目についたそれをちぎって南会員のバッグに押し込んだ。  プロの掏摸《すり》でよくこういう手口があると聞く。懐から財布を抜き取ると、別の人のバッグか何かに押し込んでおく。そして緊迫が去ってから、その財布を回収する。  百舌《もず》もそれ的なことをするようで、捕獲した蜥蜴《とかげ》とか壁虎《やもり》とかを高い木の梢に突き刺しておく。それをあとでヒマになってから食するという。  藤森会員の場合はそれほど深い意味はなく、たんに手ぶらだった。手ぶらでも柘榴に出合えばちぎる。ちぎったら邪魔だからそばの誰かのバッグに入れる。というだけのことで、掏摸でも百舌でもない。  シュールレアリズムというのは手術台の上でミシンと蝙蝠傘が出合ったのが原因だというが、この場合は路上で藤森会員と柘榴が出合ったのだ。でもその後、その柘榴と桑名名物の蛤とがこんどはぼくのお腹の中で出合ったわけで、それが原因で、はからずも腹の中でシュールレアリズムの発生があったのではないかというのが、この鈍痛の第一の疑いである。  深夜のお腹の鈍痛は、次第に角張りながら人体下部の出口へと降りて行った。  後日、桑名へ行って柘榴のあと蛤を食べて腹を下したというと、それはアタりそうだな、食い合わせが悪いよ、といわれたりする。別に根拠はないのだけど、何といっても柘榴はいかにもザクロであるから、何かしら残酷な力を秘めているように思うのである。  一方の蛤というのも、貝はアタるから気をつけろとよくいわれるわけで、その二つが手術台の上、ではない人体の中で出合えば、それはお腹の中がシュールレアリズムもムリはない、ということになる。  でも後日、まったく同じものをいっしょに食べた藤森、南の両会員に訊いても、別に、何でもなかったよ、ということで、これは食中毒というわけではないようなのだ。  まあそれらはいずれも後日わかったことで、その夜はとにかく鈍痛が体内の八十八か所巡りのように次第次第に下部に降りていきながら、二時半にはじまってとうとう三時ごろ、人体下部出口から排泄がはじまった。  はじめに出たのは気体なので、何だ、こんなものかと思った。次に物件が出て、それもごくふつうの物件なので、おや? 大したことはなかったのかな、とまた蒲団にもぐっていると、それはまだほんの序の口なのだった。  物件につづいて出るものがどんどん液状化現象を起して、しまいにはもう完全な水分のどしゃ降り。もうこれで終りかと蒲団に戻るのだけど、終りではない。二回、三回、四回。つぎつぎと人体下部出口に向かって水分が膨満していく。こんなに出つづけていいのだろうかと、出口の筋肉で防止してはいるけど、筋肉の力では耐えきれなくなり、また立ち上がってトイレに駆け込む。  しかし体内の物がこれだけ出尽していくと、さすがに体力も消耗してくる。苦しくなってくる。苦しいというか、気が遠くなりそうだ。  しかも三回目、四回目からは、人体下部だけでなく、上部出口からもこみ上げて出て行こうとするものがあり、いわゆる嘔吐であるが、このサルトルの実存主義は本当に苦しかった。蒲団に戻ったらまたこみ上げてくる。もうお手上げ状態。  旅館のフロントに助けを求めようか、いっそ救急車を呼ぼうかとも思ったが、でもいざやろうとすると大げさである。  老人力の発見者二人は鼾をかいている。じつをいうとこの窮状をもう一度発見してもらいたい、という願望はあるのだけど、せっかく鼾をかいているのに、それを止めさせるのは気が引ける。老人力が丸出しになってしまうようで、ハシタないというか。  しかし闇の中を四回も五回もトイレに立って、しかも喉の奥から、 「おえーっ………」  ということになってくると、二人の鼾も少しリズムが乱れてくる。いったん乱れたのがまたちょっと復帰したりして、またちょっと乱れたりして、何だか口の中の唾がむちゃむちゃいったりして、 「ん………」  とかいう空気の変化、パラダイムの転換があった。 「あれ……、Aか瀬川さん……、どうしたの……、何か……」  ということになり、いちおう、 「いや、……」  と虚勢を張りながらも、じつはこれこれしかじかということになってしまった。  夜中の四時ごろだろうか。藤森会員も鼾が止まり、事態を直ちに察して、 「救急車を呼ぼう」  となったが、いや、それはちょっと大げさだから、もそもそ、なんて躊躇していると、 「あのね、救急車はそういう時のためにあるんだから、気にしなくていいんだよ。俺だって三回乗ったことがある」  凄い。ぼくはまだ一回もない。  訊くと、食中毒のときもあったそうで、しかしこの人の食中毒は常識を超えて凄いだろうな。子供のころから壁虎《やもり》とか蜥蜴《とかげ》とか、ありとあらゆるものを口に入れて生きてきたのだ。  というとまるで横井庄一さんのようだけど、あの方も先日亡くなられて本当に残念だった。生前に一度取材でお会いしたことがあるが、初対面のぼくらの正体を見ようとしてちろり、ちろりと動いていた眼差しは一生忘れられない。言葉を交わすまでもなく、あの方の体験の総体がその眼差しから一瞬にしてぼくに浴びせられた。本当に貴重な方を亡くした。ご冥福を祈る。  と、いまでは書けるけど、その桑名でのぼくはご冥福を祈るどころか、ひょっとしたら自分が祈られてしまうかもしれないような、ファールラインぎりぎりの打球そのものの気持で、ファールならまた打ち直せばいい、一球儲けた、というバッターの気持にはなれないのである。  あまりにも出てしまったので、脱水症状を警戒して水を飲んだ。そしてとうとう救急車が来て、よろよろと降りて行って、フロントで靴を履くとき飲んだ水を全部サルトルしてしまい、フロントの人に謝りながら救急車に乗る。  乗る時は自力で乗ったが、病院に着いてからは他力で降りた。車内で既に車付きの担架に寝かせられていたのである。  担架の上で仰向けに寝て路上を移動しながら、瀧口修造さんを思い出した。もう故人であるが、はじめて倒れて救急車で運ばれたときの日記が印象に焼きついている。やはり夜中に仰向けになって路上を移動しながら、夜空に浮かぶ雲が風雲急を告げる印象について書いておられた。まったくその通り、おっしゃる通りですという不安な夜空。不安だけど何故かワクワクするような雲の走る夜空が、目の前を回転したり直進したりしながら、それが急にコンクリートの天井になり、ぼくは病院のベッドに移し替えられた。  救急病院の若い医者は、まあ様子を見ましょうということで、とにかく脱水状態への処置として点滴となった。  藤森、南両会員には本当に申し訳ない。救急車に同乗して、病院に着き、点滴の間もずうっと、こちらはもういいからというんだけど、ずうっと眠そうな顔つきで付き添ってくれて、たしかにそうなった以上は、そのまま置いて帰るというわけにはいかないんですね。  様子から見てもう大丈夫、と思ったにしても、いえいえ、という人間社会のナニがあるわけで、いや、本当はそういうことじゃなく、ぼくのことを心から心配して、老人力は結構だけどまだ今日のところは何とか元気になるようにと、見守ってくれていたんだ。  その日は三泊の予定の一泊目で、この先まだみんなには路上観察の大任が控えている。だからもう、ぼくは点滴まできたんだから大丈夫だし、 「ぼくのことはいいから、みんな早く路上へ」  という名セリフを思いついて言ったら、これはウケた。でもいつものようにげらげらというわけにはいかず、結局は点滴の終りまでいて、ぼくを護送して帰ったのである。  危ないですね、老人力は。甘く見てはいけない。老人力はマイナスのパワーだとかいう逆説を楽しんだりするんだけど、マイナスはやはりプラスではなくマイナスである。  非常に危険な力を含んでいる。死に到る病とかいうけど、老人力というのは死に到る寿命である。でもその危険を裏返しにして縫いつけているからこそ、ボケ味をはじめとする老人力は精彩を放つのだ。  そんなわけで、老人力の探究はじつは大変なことで、命がけでボケているのだ。だんだん物忘れが激しくなるけど、命がけで物忘れをしている。 「えーと、そうそう、あれですよ。ほら、あの、あれ……」  といってなかなか名前が出てこないけど、名前は命がけで忘却の彼方へ消えていく。  いいですね、命がけは。  命がけで喧嘩したり、命がけで論争したりというのはまあよくあることだけど、命がけでボケていくという一種のマイナスパワーの空転現象は、今後は超電導理論の伏線として語られていくことになるだろう。 [#改ページ] [#1字下げ]下手の考え休むに似たり[#「下手の考え休むに似たり」はゴシック体]  原研というものがある。原子力研究所の略。いまは原発の方が有名だけど、もとは原研である。それと並ぶものとして老研というのを考えている。つまり老人力研究所。  老人力にはまだ謎が多い。もちろん老人力というのはまだ発見されたばかりで、その組成さえもわかっていないし、これからの学問である。  いまはまだその言葉が面白いといって、冗談の領域であれこれされているという状態である。これがしかし、いずれ大真面目の領域にさしかかったとき、老人力からは何があらわれてくるのか。  その老研を財団法人でもいいし第三セクターでもいいから設立して欲しい。  老人力でいずれ発電が出来るようになるのか。老発は可能なのか。  これはちょっと難しい。老人力はいまのところの定義ではマイナスの力だから、これで発電すると、世の中の電気がどんどん消えていくということになるのかもしれない。しかしそれもいいですね。世の中がどんどん暗くなる。いやいい意味で。  前に中学生暴力というのが社会現象としてあらわれたとき、この力を何とか平和利用できないかと思った。ただいたずらに発散されているいじめや、校内暴力や、家庭内暴力や、そういったエネルギーをそのまま大気中に放出させるんじゃなくて、うまく回収できないのか。回収して平和利用に回せないのか。  技術的な問題さえ解決すれば、中学生暴力による発電、ということも不可能ではない。衝撃力を電気変換する小型装置を、暴力の発生しそうな場所やその人々に、いくつか設置しておく。そしてそこで暴力事件が起るとどんどん発電が進んで、いろんな産業がうるおう。  夏に日照りがつづいてダムの水が底をつき、人々に節電への協力が要請されて、全体に電圧が下がって薄暗い明かりで暮しているとき、パッと明るくなる。中学生暴力の発生である。 「やれやれ、助かった」  なんてみんな胸をなでおろしたりする。  一方、中学生の方は、何か反抗したくて、ワルサをしたくて暴れていることが、結果として世の中の人助けになると知って、がっくりくる。これじゃ反抗にも何にもならないんじゃないかというので、そのことに反抗して暴力をやめる。そうやって中学生暴力が平定されていくんだとしたら、それはそれでいいことなんじゃないか。  世の中にはそういう手つかずのまま発散されているエネルギーがたくさんある。暴走族なんて、あれも大変なエネルギーだ。その毎晩放出されるスピードと大音響を電気変換できれば、世の中の大変なパワーとなる。  世界を見渡せば各地で民族紛争や宗教紛争が絶えない。部外者から見るとムダなことに見えてしょうがないんだけど、当事者たちは真剣である。もちろん真剣だから殺し合いにもなってしまうのだろうが、あの闘争のエネルギーを何とか平和利用できないものか。  憎しみは憎しみとして仕方ないことだとするなら、せめてその両者にエネルギーの電気変換装置を付けて、その争いのエネルギーから世の中に電力供給をする。争えば争うほど外部世界がうるおうとなると、争う人たちも自分たちは何をしているんだろうかと、少しは外から見る目を持つことになるのかもしれない。  いまの日本ではそれほどの暴力紛争は見られない。小競り合いはあるけど、発電に到るほどの暴力は発生していない。  日本の場合はもう少しミクロですね。  たとえば少年法の世界である。いまの小中学生はすぐむかつくという。学者の意見では、世の中のストレスが少年たちにむかつきを発生させているという。  人々が世の中から受けるストレスは、世の中が大きく動いていく際のエネルギーロスというか、その漏れたのが人々に染み込んでいく状態である。もともとはエネルギー問題なんだから、必ず回収できるはずだ。  つまり少年たちが、いや別に少年に限らずとも人々が、むかつく。つまり私人個体の内部エネルギーが高まる。そうすると小型装置によって電気が発生して、それが平和利用に回される。  むかついた人は、その内部エネルギーが排出されるわけだから、その発電によってむかつきは治る。一挙両得。  つまり最近のトレンドの「癒し」になるわけで、これが発電療法という健康法である。一方発電所の側からすれば、これが「むかつき発電」と呼ばれていて、人々がむかつけばむかつくほど電力が高まる。だから世の中の人々のストレス増大を密かに期待している、ということもあり得る。  さて老研では何をするのか。  考えてみたんだけど、老人力はやはり発電には向かない。エネルギーの方向が違う。第一次エネルギーとは違って、何かもう一つの何かだ。何だ、何かとは。  世の中のほとんどの人々は、いつまでも若くありたいと思っている。いつまでも食べたい、いつまでも飲みたい、いつまでもやりたい。若くありたいエネルギーには、むかつくとか、目立ちたいとか、有名になりたい、モテたい、儲けたい、勝ちたい、俺が俺が、頭にくる、どついたろか、そういったいろいろな要素が渦巻いている。それらはすべて発電に回せるエネルギーである。  でも老人力はそうはいかないみたいだ。発電には回せない。だから老発はムリ。いまのところ。  老人力というのは一種の静電気みたいなもので、いや電気のことはよくわからないけど、何となく猫のようなしょうがないエネルギーというか。  まあ考え過ぎるのはやめましょう。つい功名心にかられて、何か新しい理論でもおびき出そうとして、考え過ぎるんですね。ムリやり頭の力に頼ろうとする。脳みそへの依頼心。  最近の人間はひ弱だから、まず頭に頼ろうとする。ぼくも最近の人間だから、論理的思考というものにはつい従おうとする。  もちろん人間の生活に論理は必要で、一足す一は二じゃなきゃ困るんだけど、それは一足す一の場合のことで、一足す匂いの場合はどうするんだ、え? それを論理でどう答えるんだい? ということが実生活(フィールドワーク)ではたくさんあるのだ。  その場合はやはり自分の「感じ」だけが頼りですね。たとえば論理的に正しいと思ったことでも、 (何か嫌だな)  と感じるときは、そっちへ向かうのはやめた方がいい。  文章を書いていてもそういうことはある。リロン的に正しいはずの文章を書きながら、何だかつまらない。何だろう、と読み返してみて、書いている内容は正しいみたい、間違ってはいないみたい、と思うんだけど、それは「みたい」なんですね。理屈では正しいけど、ぜんぜん面白くない。嫌だ。  ギリ飯とかギリ〇〇とかあるけど、ギリ文というのもあるわけで、それをいつの間にか自分も書きそうになっている。  ぼくはリチギだからその危険が凄くあり、だからスリルもある。  自分の考えを強く押し通せる人は、そういうスリルはないと思う。でもぼくみたいに気が弱くて臆病で、人にいわれたことにすぐ従うけど、ムリは嫌だという場合、そこを何とか折り合いをつけようと、スリル満点を味わうことになる。 (画像省略)  それも老人力じゃないだろうか。  いや、いきなり本題に戻って申し訳ないが、つまり論理的には正しいはずの方に向かいながら、しかしどうも嫌だなという感じがあるとき、どうする?  老人力のまだない若年時代は、やはりどうしても論理に従う。論理を前に立てる。そうしないと怒られるんじゃないかとか、馬鹿にされるんじゃないかとか考えるんです。  でも老人力がついてくると、まあいっか、というのが基本だから、論理で怒られたって別にいいというアバウト感覚で、芸術より趣味、思想より好き嫌い、平等よりエコ贔屓の路線で行けるようになる。  つまり理屈の正しさよりも、自分の感覚がいちばんということ。  最近は論理的思考の落し穴というのをつい考えてしまう。たとえば例の少年の人殺し事件。いろいろな識者がその事件の中に論理的に分け入り、細かく分析していく。AだからBになって、BだからCになったということが、端から理由がつけられていく。いろんな説があるけど、ぼくなどはどの説も正しいと思ってしまう。でもそういう論理をたどっていると、何だかその事件を肯定するような位置にいるのに気がつく。  嫌だなあと思う。  殺人はもちろん嫌だけど、それを嫌というふうにいえないような論理の力そのものが嫌になるのだ。何か「好き嫌い」の後ろにじりじりついてきて、隙を見てすぐ前に出ようとする。      *  ここまで書いて、どうしても旅に出る時間が来てしまった。残念。あとちょっとなんだけど、でもいいかげんな文章を書くわけにはいかない。  ぼくは真面目だから、原稿を持って新幹線に乗った。鉈とノミも持って、槍鉋まで持って新幹線に乗った。同行F森照信。F森教授が天竜に建てている秋野不矩美術館の工事である。プロばかりでやっているので真面目になり過ぎるのを警戒して、ここでシロート力を導入する。それに駆り出されたのだ。  こだま号。夜の弁当を食べて、F森教授が夕刊を読みはじめたので、よし。いまだ、と思って原稿を取り出した。シャープと消しゴムも取り出し、眼鏡も取り出し、さて、と思ったら原稿がない。原稿を持ってきたんだけどそれは原稿用紙で、書きかけの原稿を持って出るのを忘れてしまった。  老人力。  もはやあれこれしている暇のない緊急事態なので、思い出しながらそのつづきを書く。  これが大工仕事だったらどうだろう。柱とハリを繋ぐホゾの穴だけ開けて、そのまま来てしまった。だけどもう時間がない。このままつづきを作らなければいけない。ホゾ穴に入れるホゾを、記憶を頼りに切り出し彫り上げる。それでピタッと入るか。  論理的思考の落し穴ということを書いていたのだ。いまの世の中は脳社会とかいわれて、どんどん論理に覆われてきている。人々のそれぞれの感覚的思考が萎縮してしまって、安いから、得だから、便利だからというような論理だけでものごとが進み、好きとか嫌いは取るに足らぬものとして、どんどんゴミ箱に放り込まれている。  たとえば法律というのは論理の最たるもので、それがまず人のおこないの第一に優先される。  もちろん生活の上で法律とか論理的思考は必要で、論理あっての人間ということで人類はここまでやってきたのだけど、好き嫌いがそれに押し潰されてしまったら、何のための人生かということになる。  なかなかうまくいえないんだけど、一つ一つの論理は正しい。人権とか民主主義とかいくつもの正しい論理がずらりと揃って、全部正しいはずなんだけど、その全体が、気がつくといつの間にか傾いている。論理的には全部正しいはずの世の中の全体が、論理的には見えない落し穴にずるずると吸い込まれはじめている。  でもさいわいなことに、歳をとると人間には老人力がついてくるのだ。老人力がつくとどうしても論理を支える力が抜けていき、 「まあいっか……」  という本音が(略)やっぱり時間切れである。 [#改ページ] [#1字下げ]老人力胎動の時期を探る[#「老人力胎動の時期を探る」はゴシック体] 「ちくま」連載を契機として、老人力のことはぐんぐん世間に広まっている。というか、世間がぐんぐん老人力に気づいてきている。  この間ある「一冊の本」で東海林さだおさんと対談した。テーマは老人力。  東海林さんは前に何度か対談したことがあるんだけど、この老人力のときはちょっとテーマにとまどっているようだった。  ぼくだってまだ老人力は研究途上で、とまどってはいるんだけど。でも言い出しっぺの張本人だ。下地がある。  でも下地なしにいきなり老人力じゃ、パラダイムの転換とかいろいろで、とまどいは当然である。  で、その対談はいま一つ、爆薬を残した感じで終ったんだけど、電話があった。東海林さんが連載ページをもっている「オール読物」からで、東海林さんのお望みで、もう一度老人力対談をしようという。  リターンマッチだ。いいですね。だんだん盛り上がってくる。  で、やったんだけど、そのとき老人力の問題点がいくつか明らかになってきた。それはもちろんその雑誌に載るんだけど、ここでもさらに論考しよう。  じつはその前の対談でも判明したのだが、東海林さんは意外と突っ込みタイプなのだ。マンガやエッセイなど、そのおかしさにはいつも腹を抱えて、ボケ味かと思っていたのだけど。  ところが東海林さんは突っ込みである。いやもちろんあのおかしさはボケ味を含有しているんだけど、形としては突っ込みタイプだ。  このときも、 「じゃあ山田五十鈴は老人力があるのか。原節子はどうなのか」  というような非常に鋭い突っ込みになり、ちょっとぼくも老人力がわかんなくなった。老人力というのはふつうのパワーじゃないから、突っ込まれると消えちゃうものらしい。これはこれで新しい発見だった。  そのことを感じてのリターンマッチだと思う。  この二度目の対談で、いろんなことが明らかになった。いや老人力そのものはそう簡単に明らかにはならないが、老人力というものに対する目のつけどころが、少しずつ明らかになってくる。  まず老人力元年はいつかという問題。  まあこれは、言葉としては去年、つまり一九九七年としていいだろう。でもそれに至る徴候はその前からちくちくとあるわけで、だらだらとあるわけで、それはいつごろからなのか。  老人力という言葉そのものは、路上観察学会の中から発生した。その発生にあたっては、その言葉を生み出す場の熟成があったわけで、路上の場での思考やおこないが、次第に老人力という概念を使わざるを得ないところまで熟し切っていたのだ。  そもそも路上観察学会なるものの発生自体が、既に老人力を暗示している。路上を目的もなく徘徊して歩くわけで、徘徊といえばやはり老人だ。徘徊老人。  そのときはまだ老人力という考えがなかったにしても、興味とか行動がかなり老人力をしているわけで、容疑は濃い。動機としては充分である。こと老人力に関しては、世間一般に比べればやはり専門家集団と見なされる。自覚はなかったにしても。  ということで十年ほどの徘徊の末に老人力という言葉が生み出されるわけだが、その言葉が空気に触れたとたんに、世間一般の反応も素早いのである。老人と、老人予備軍はもちろんのこと、まだ予備軍にも至らない若年層も、この老人力という言葉にぱっと反応して喜んでしまう。  ということは、世間一般も熟していたのだ。熟し切っていたというべきか。いまだ老人力という言葉はないまま、その内実の方がふくらんでいて、表面張力ぎりぎりまで行っていたところへ「老人力」という言葉がぷつんと刺さって、一気にあふれた。  とすると、世間一般が熟しはじめたのはいつごろからだろうか。自覚はなくても、いつごろから老人力に向かってきたのか。  一つぼくが思ったのは温泉ブームだ。もう六、七年も前になるだろうか。温泉にひたる趣味がじわじわとブームになってきた。  温泉といえば昔から老人のもので、もしくは病人が湯治に行ったりするもので、元気一杯の若者が堂々と行くものではない。  と昔は思われていたけど、それが老人はおろか、中年はおろか、若年層にもじわじわとブームになってきたのである。  青年よ大志を抱け。  といっても、温泉につかっているんでは、もはやいうだけ野暮というもの。もうそのときすでに、  青年よ老人力を抱け。  という暗黙のメッセージが広がりはじめていたのではないか。  骨董ブームもありますね。これは何年前からか。温泉よりはちょっと後だと思うが。  青年が大志を抱かずに骨董を抱きはじめたのである。  何とじじむさいことであろうか。といういい方は古い。  何という老人力の横溢であろうか。というふうにいう。  骨董なんてそれこそ爺さんのものであったのが、まだ中年にも至らぬ、青年にも至らぬ少年法の中にヌクヌクといるようなものさえが、骨董骨董といいだした。  しかし骨董というのはどうしても、知識とネンキあってのもので、若年にはムリ。  ということで、若年としては近過去の物品をムリヤリ骨董にするという挙に出た。Gパン、スニーカー、テレホンカードといった、下手をすると現行品をまだ売っているような物品類に骨董を見立てて高額購入をはじめたのである。  高額になれば、近過去の物でもとりあえず骨董気分を味わえる。  金で買った老人力。  昔と違って金のある若者だからできることだが、苦しまぎれとはいえ、そこには老人力への暗黙の接近を見ることができる。 (画像省略)  ぼくの個人的な方面でいうと中古カメラ。  これも骨董の一部だけど、骨董一般に比べれば人数は限られてくる。専門家集団。ぼく自身むかしは中古カメラなんてじじむさいと思って近づきもしなかったんだけど、忘れもしない一九九一年、春、ふとしたハズミで銀座松屋の中古カメラ市に足を踏み入れて、一気に病気になった。ということは、自分の脳みその表面では、じじむさい、とかいってばかにしていながらも、脳みそをずーっと下がった内臓の方では、中古カメラ、つまり老人力カメラに引き寄せられていたのだろう。自分でも気がつかなかった。  そのころ中古カメラ市の会場は、黒山の人だかりの黒山が全員おじさんだった。それも老人、初老、中年で、若年はちらほら。まして女性、それも若い女性なんて一匹も、いや一人もいなかった。  世の中にこんな場所があったのだ。そのころ既にパチンコ屋にも若い女性が押し寄せ、競馬場にも若い女性が押し寄せ、うわァ世の中こうなるのかと思っていたから、黒山の全員がおじさんだけという場所を見つけて、そうか、ここまではさすがに女性はこないか。たしかに脳みその構造からして、女性と中古カメラは反りが合わない。  と考えてからウン年、いまは中古カメラ市にも若い女性がわんさといる。いや、わんさとまではいかず、いまだちらほらではあるけど、それが必ずしも男にくっついて来るのではなく、一人で自力で来て中古カメラに触ったりしている。みずからの体内に抱いている老人力につき動かされて、中古カメラ市まで来てしまっているのだ(?)。まだちらほらではあるが。  とりあえずこれまでのところを整理すると、  温泉  骨董  中古カメラ  パチンコ屋  競馬  要するにこれらは「おじん趣味」といわれるものだ。そこに若年層、とりわけそのリーダーであるギャル層が浸み込んできている。  世にいうおじんギャル。  これが世間一般の体内に深く発した老人力の、まだその名も持たぬ時代の受胎告知であったのだろう。  おおよそ六、七年前ということになるのか。世間一般のギャルが老人力を受胎した。  もちろんギャルに限らない。男も。最近は世の中の性差というものも薄れてきて、若年の男だって受胎ぐらいする。  ギャルに対して若年の男子は何というのだろう。ギャルソンか。おじんギャルソン。  あと細かい年代の特定には、歴史学者の研究が必要だろう。  老人力発見の専門家集団は、十年ほど前から徘徊行動を開始している。世間一般の方もそのころからああだこうだと、老人力のふくらし粉に手を伸ばしていたのだ。  最近ではイギリスブームというのもありますね。  イギリスといえば、これはもう老人力横溢の国だ。温泉、骨董、中古カメラ(パチンコはともかく)、競馬、ときてその先イギリスに駆け込んで行くのは、振り返ってみれば当然のことなのだった。  そしてイギリスに駆け込んだところで、ガーデニングである。お爺さんお婆さんの極致。とにかく、いかにも現役引退の味わいで、とうとうそこまで来てしまったのである。  世の中はそうなっていたのだ。  ぼくも最初温泉ブームが出てきて、何かあるな、と思っていた。  たとえば一九七〇年前後、造反有理とかいわれた時代に、温泉なんて思いもよらなかった。 「軟弱!」  ということで、そういうのはブルジョワの手先、CIAの陰謀、ということになっていたのだ。頭の上では。  でもそのとき、頭の脳みそをずーっと下がった内臓世界では、もうひそかに温泉へ行こうとしてタオルの用意とかしていたのではないか。頭に隠れて。  頭というのはばかだから、そういう体に鈍感だったりする。  これは自戒をこめていっているのだ。  たとえば小津ブームというのもありましたね。小津安二郎の再評価。あれはちょうど温泉ブームと期を一にしてはいないだろうか。  ぼくもその流れを受けてか、そのころ小津の映画を何本かつづけて見て、小津力[#「小津力」に傍点]というものを認知した。小津をいいなあと思ったのは、ほとんど老人力はいいなあ、ということではないだろうか。  でも小津がタンタンとその映画を現役で撮って発表していたころ、それを見たかというと、ぜんぜん見ていない。  たとえば「秋日和」なんて六〇年代のことで、そのころ若いぼくは大島渚やその他、何か思想のありそうな、メッセージ映画というか、前衛丸見えのぎんぎんの映画の方ばかり向いて、小津の映画が映画館にかかっていることさえも知らなかった。  だから、物いわぬ体に気づかぬ頭がばかだと、一概には責められない。もちろん人類の頭にどうしてもばかな能力があるのは真実だけど、頭なんてそういうもんだと知った上で、それでも体としては心臓の血液を補給してあげるしかないのである。頭というのは、地球上の北朝鮮なのか。 [#改ページ] [#1字下げ]ソ連崩壊と趣味の関係[#「ソ連崩壊と趣味の関係」はゴシック体]  ぼくはむかし趣味を軽蔑していた。  趣味というのは自分だけの楽しみで、世の中には何もコミットしないじゃないか、と思ってばかにしていた。  趣味よりも思想の方が偉いと思っていた。  思想とか革命とか、前衛芸術とか、そういうものの方が雄々しいもので、趣味なんて女々しいものだと思っていたのだ。  たとえばピカソとマチスという現代美術の両巨頭がいる(いまはもう近代美術になっているけど、ぼくの若いころはまだそれが現代美術だった)。その両巨頭のどちらが好きかというと、ピカソだった。  いや、好き嫌いというより、ピカソの方を尊敬していた。  ピカソの方が前衛的な感じで、フランコ独裁に抗議する大作「ゲルニカ」を描いているし、後には朝鮮戦争に抗議する絵も描いているし、やっぱり凄いと思っていた。やっぱり思想があるんだ、と思っていた。それに比べると、一方のマチスはただ綺麗なだけじゃないか、と思っていた。社会にコミットするものがない。ただの美術というか、むしろ趣味的なものじゃないか。  そう思って、あまりちゃんと見ようとしなかった。  趣味を軽蔑していたのだ。  思想が偉い。感覚よりも頭の方が偉いと思っていたのだ。  これは若い頭の特徴ということもあるけど、あのころの時代の特徴でもあるんじゃないか。  あのころとはどのころかというと、少くともソ連崩壊以前の時代ということ。  革命信仰とか、共産主義信仰の生きていた時代、趣味との関係でいうと、思想の信仰が強くあった時代。  思想の信仰といってしまえば、まだいまも若い頭や固い頭の中ではあるかもしれないが、当時はそれが世の中全体に強くあったのである。  それともう一つ、科学が信じられていた時代ということもある。  ソ連の人工衛星が飛び、初の宇宙飛行士ガガーリンが飛び、初の女性宇宙飛行士が「ヤー、チャイカ」とメッセージを送ってきた。そのころが共産主義信仰と科学信仰の頂点だったんじゃないか。  月の裏側の写真もソ連が最初に撮った。もっとも恐ろしくコントラストの悪いものだったが。  でもその後はアメリカが意地で頑張って、アポロで人類初の月面着陸を果す。  この辺りがデッドヒートで、共産主義が資本主義に抜かれた。  共産主義信仰はまだあったにしても、その辺からちょっとその信仰の力が衰えはじめたんだと思う。  でも科学信仰の方はアメリカが引きついで、月面まで持っていったのである。  でもこの信仰も、頂点はそこまでだった。もちろん科学信仰はいまもあって、いろんな弊害ももたらしているんだけど、科学の将来を無批判的に憧憬できたのはそこが頂点ではなかったかということ。  共産主義信仰はもうその前から崩れはじめていたけど、誰もがそれを明らかに悟ることになったのは、やはり何といってもソ連の崩壊である。  それと同じように、科学信仰の崩壊を悟らざるを得ないのは、やはりオゾンホールの出現であろう。科学のもたらす力が地球を実際的に破壊する現象を見て、科学信仰は崩れはじめた。  科学はもちろん必要である。ただその信仰が危ないのだ。  趣味のことを考えるのにどうしてそんな、ソ連の崩壊やオゾンホールのことを出さなければいけないのか、ぼく自身も書きながら変なことになってきたと思うのだけど、でもいま自分の中には思想よりも確かなのは趣味だと思う力があり、それは何だろうかと考えていくと、こうなってしまうのである。  人間はいつでも趣味や遊びを持っている。原始時代からそうだろう。  動物にだってあるんだから。猫は紐にじゃれるし、犬はボールに飛びついてくわえて飛んでくる。何の腹の足しにもならないのに。  まして人間はいつだって趣味を持っているんだけど、それが蓋をされて押さえられていることがある。その蓋が、近代においては思想だった。  少くとも近代のぼくの内部を観察するに、思想によって蓋をされて、趣味はちょっと縮こまっていた、身を引いていた、ということがあるのである。  といって別に大した思想を持っていたわけではない。考え方の形としてそうだったということ。  先にもいったが、それは時代でもあり、年齢によることでもある。 (画像省略)  歳をとると趣味が出てくる、趣味に向かうようになる、というのは一般的にそうだろう。現役引退という物理条件もあるし、もう一つ、その人の内部的問題も大きい。  何といっても若いものの思想の信仰が挫折し、挫折ということに関しては思想に限らず他にいくつも散見するわけで、挫折は何も特殊なことではなく世の常なんだ、ということを知るようになる。  挫折の効用は何かというと、力の限界がわかってくること。若いときは何でも出来ると思っているけど、挫折をめぐって自分の力の限界が見えてくる。世の中での可能性の限界も見えてきてしまう。  でも自分は生きている。何かやらないと生きてはいけないわけで、金を稼ぐこともそうだけど、生きる楽しみでもそうだ。ロボットみたいに生きているとしても、ロボットではない。人間はやはり有機生命体であって、どんな小さなことでも何か楽しみがないとやっていけない。晩ご飯への期待、ビールへの期待、おかずへの期待、パチンコの球への期待、明日友だちと会うことへの期待、オークションの申し込みが当たっていることへの期待、そういう小さな楽しみでもつなぎつなぎしなければ、なかなか簡単に生きていけない。  自分の力の限界が見えた後になって、そういう小さな楽しみが切実に感じられてくる。それまで思想とか理想に君臨されて、趣味なんてそんな小さなもの、とむしろ軽蔑的に見ていたものが、押さえる蓋がなくなると目の前にアップになって、細密に、ありありと見えてくる。  つまりそうやって趣味の世界に入っていけるのだと思う。じっさいに、自分の力の限界を知り、落胆もあるだろうが、ある諦めの後にその限界内で何かをはじめてみると、それが自分にとってじつに大きな世界になってくるのである。無限の世界に向かっていたときにはムダな力ばかりで空回りしていたものが、限界の中ではむしろ有効に力が発揮されて、その限られた世界が広がってくる。  これはやってみなければわからないことだけれど、力の限界を知って、その限界内で何ごとかをはじめると、その限界内の世界が無限に広がってくる。  宇宙は確かに無限だけど、指の先の爪の先の垢の中の世界というのも、無限である。宇宙はすぐ届かなくなるけど、爪の先の垢の世界はとりあえず届くところにある。  それに、歳をとると、どうしても人生が見えてくる。つまり有限の先が見えてくるわけで、その有限世界をどう過すかという問題になってくる。  若いころは人生の先がまだ遠くて、有限性がわかりにくい、だから自分の人生への切実さが少く、思想の世界のために自分の人生を寄付できるとも考えてしまう。じっさいにそれを実行に移して、思想のために自分の人生を棒に振る人もいる。振り切ってしまえれば、それはそれで自分の人生を楽しんだのだということもできるけど、ちょっと苦しい。やはり自分の人生というときの、「自分」がちょっと稀薄なのだ。  で、棒に振るにしろ振らないにしろ、歳をとると、自分というのが濃厚になる。他の誰でもない「自分」の人生という有限時間が確実なものとして、一本の棒のように認識されてくるのだ。  趣味はそこからだろう。自分が楽しくなければしょうがないわけだから、世の中にコミットするもしないも、それも趣味のうち、といえるようになる。つまり思想が趣味の人もいるだろうし、政治が趣味の人もいるだろうし、運動が趣味の人もいるだろう。思想思想という言葉の裏に、それぞれみんな「自分」の人生を引きずっているのが、本人以上に見えてくるのだ。  しかしそういうことが年の功だとすると、じゃあ若者の趣味はどうなるんだという問題がある。じゃあ若者は趣味を持てないのか。でも最近の若者はけっこう趣味に走るじゃないか。  そうなのだ。いまの若者はけっこう年の功を積んでいるんだと思う。若くして、すでに年の功。  時代にも年齢があるのだ。地球にも太陽にも年齢があるんだから当然だと思うが、それぞれの文化や文明にも年齢がある。  いまの時代は、改革はともかくとして、革命信仰を持つことができない。科学信仰を持つことができない。というところで、時代そのものにも有限の先が見えているわけで、そういう時代に生まれてくるのだから、いまの若者は既に基礎控除のようにして、みんな一律に年の功を持っているのだ。  だから年齢的には若者だけど、一気に趣味に走れる。  ミーイズムとかマイブームという言葉はその代表だろう。本来なら現役引退の老人が口にするべき言葉である。それが若年層から湧いてくるのだ。  だから趣味はますます堂々たる営為になってくるわけで、破産した思想の力も、その趣味の力の反射で、別の形で再生するかもしれないのである。 [#改ページ] [#1字下げ]中古カメラと趣味の労働[#「中古カメラと趣味の労働」はゴシック体]  もうじき中古カメラ市。楽しいな、老人は。  還暦になったくらいで老人ぶるな、というご意見もあるかもしれない。まあしかし年齢はともかく、中古カメラは老人力だ。  老人と同じく、もう定年退職したカメラで、自宅でぶらぶらしている。でもまだ五体満足で、どこか五体の一体ぐらいガタが来てるといっても、まだまだ働ける。働きたい。でも世間からは何故だか切り離されて、何か仕事をしたくても、させてもらえない。 「ゆっくり休んで下さい」  なんていわれて、いや、何か仕事をやりたいんだといっても、 「いえいえ、とんでもありません。どうぞお楽にしていただいて。仕事はぼくらがやりますから」  なんていわれて、オートフォーカスの、自動露出の、プラスチックの若者が、プロみたいな顔してもといた自分の職場で働いている。  だけど仕事は下手くそで、見ちゃおれんのだ。オートフォーカスといったってピンボケはしょっちゅう。二人並んだ写真なんて、遠くの風景にピントを合わしてしまって、かんじんの二人の顔はぼけぼけ。 「駄目じゃないか!」  と叱っても、 「いえ、ちゃんと真ん中にピントを合わせました。おかしいなあ」  といっている。真ん中に合わせるだけじゃダメなんだ。ちゃんと撮りたいものに合わせなきゃ。最近の若者は応用がきかないというか、機転がきかないというか、要するに頭が悪い。想像力がない。教えられた範囲のことしか出来ない。あとは何も出来ない。  中古カメラとしてはそういうのを見ていていらいらするのだ。そのくらいのことも出来ないのか。 「いえいえ、とんでもありません」  なんていって、そういう儀礼的なやりくちだけは覚えていて、ぜんぜんとんでもあるのである。  あーあ、世の中のグレードは落ちたなあ、と中古カメラは思う。  中古カメラはたしかに中古だ。ボディにギックリ腰の過去があったりして、レンズにも多少白内障の傾向が出ている。シャッターもちょっと粘って、一秒のスローシャッターが一秒半くらいかかったりする。場合によっては二秒かかって、途中で止ってしまったりもする。  でもそれは休み過ぎているからだ。体を使わないでいたから、シャッターのグリスが固まってきて、それで動きが鈍る。  グリス交換をすれば簡単に正常値で動きはじめる。町には老人力を扱う中古カメラの修理屋さんが、探せばたくさんあるわけで、シャッターの粘りぐらいはちゃんと直してくれる。  そうじゃなくても、始終体を動かして、働いていればいいんだ。いつも坂道を登っている老人は、九十歳になっても坂道を登る。だからシャッターが粘っていたら、その日からでいいから毎日シャッターを切る。もちろんいちいち高いフィルムを入れなくても空シャッターでいい。労働ではなくてストレッチみたいなものだ。毎日空シャッターで動かしていれば、粘っていたシャッターでも二秒だったのが一秒半くらいになり、そのうちにきっちり一秒で切れるようになる。  修理屋さんに聞いたことだが、プロがしょっちゅう使っているライカは、もう何年とオーバーホールをせずにグリスがほとんど消失していても、レンズのヘリコイドなどはすいすいと動くそうだ。  家屋でもそうだ。空家になると家は一気に老朽化が進むけど、人が住んでいるとぜんぜん違う。毎日窓や戸の開けたてがあって空気が入れ換るし、毎日動いている人との関わり、それによる変化で、活性が保てるのである。  車だってそうだ。 「いえいえ、どうぞお楽に」  とかいって一年間走らずにいたら、少くともバッテリーが上がっちゃってどうしようもない。  飛行機だってそうですね。 「どうぞお楽に」  といわれて一年間誰も触らなかった飛行機に、乗りたいとは思いませんね。  人間も同じことで、何年もお楽にしているとロクなことはない。一秒のシャッターが五秒かかるなんてなかなか老人力でいいじゃないかといっても、それでシャッターが切れなければどうしようもない。  完全に動かなくなったカメラはジャンク品扱いとなり、カメラの値段ではなく金属の目方の値段みたいになって、店頭の籠の中にがさがさ放り込まれて並ぶ。カメラ修理の部品取りとして買っていく人がいる。  人体の生体移植の場合は、交通事故死の若者あたりが珍重されているわけだが、カメラの事情はちょっと違う。先述のようにいまの現役の電子入りプラスチックカメラは、生体移植なんてもともと考えられていない。そんな手間ヒマかけるより新品を買った方が安くて簡単というわけで、とにかくいったん壊れたらポイ捨てが現状だ。  だからいま中古カメラとして珍重されるのは、もちろん機械カメラのことである。電子部品は使われておらず、ボディも主として金属。そういうカメラはメンテナンスさえちゃんとやっていれば、いつまでも作動する。寿命が長い。  だから中古カメラに必要なのは、つまり老人力に必要なのは、ストレッチだ。それも日常生活の中でのストレッチがいい。外見は一見労働に見えて、労働とは違うところがいいんじゃないか。  労働というのは、本当は人体の若いときに収入を得るためにやるもので、できるだけ手を抜こうとする。いや、そうとばかりは限らないけど、まあしかし同じ収入を得るためなら、できるだけ楽をしたいと思うのが人情である。それがあるから使用者の方もできるだけこき使うことを心がける。  こき、なんてちょっと下品な言葉を使ってしまったが、現役の世の中とはそういうものだ。  でも中古カメラの場合はもう現役ではない。仕事カメラではない。定年退職後になおも働くというのは趣味カメラだからである。  つまり趣味で働く。 (画像省略)  去年(一九九七年)三月に引越しをして、崖みたいな斜面の庭がある。庭といえば聞こえはいいけど、夏が近くなったら草がぼうぼうに生えてきた。抜いても抜いても生えてきて、一日草むしりして一通り全部抜き終ってもとに戻ると、また生えているというありさま。  高齢者事業団というのがあって草むしりをしてくれるという。ぼくだって高齢者だけど、申し込んだ。けっこう人気があってなかなか順番が回ってこない。やっと連絡があり、まず視察に来たのがお爺さんとお婆さん、というにはちょっとまだの感じだけど、少くともぼくよりは年上みたいだ。それがてきぱきと地形を見て、まあ、三人で一日もあればいいでしょうという。大丈夫かなと思った。  当日、軍手に脚絆でやってきた三人の中には、ちゃんとお爺さんに見える人もいる。それがいざ作業となるとさっさと働く。見た目そんなに早くはないけど、こちらはもう何度か草むしりをやった地形なので、目に見えない大変さがわかっている。ぼくらが、うわァ、こんな所どうすりゃいいんだ、と考えてしまうようなところを、ほとんど考えないでさっさと雑草退治をしていく。  たしかに本人というのは作業の前に考えてダメになってしまうところがある。引越しとか部屋の片付けなんてとくにそうだ。あれをああして、その前にこれをこうしなきゃいけないし、それにはまずそれをそうすることからやらないといけない。うわァ、もう今日はやめだ、ということになる。  ところが本人でない人は、そういうことを考えずにすむ。とにかく目の前に一つ仕事があって、その一つだけをやればいいからどんどん出来る。  という本人問題がないので早いということもあるんだけど、それにしても高齢者事業団の働きは大変なものだった。自分たちがあんなに苦労した仕事を、淀みなく綺麗に片付けていく。ほとんど苦労を感じさせない。しかも手間賃がえらい安かった。自分たちが大変だと思った作業だからよけい安く感じたのかもしれないが、それでいいんですかと訊いたほどだ。  何だか凄く恰好よかった。働きっぷりが恰好いい。いわゆる労働とはまた違う恰好のよさだ。働いてはいるけど、それが収入のためではない。趣味の働き。  とこちらがいってしまってはまずいだろう。高齢者とはいえ、やはり収入が要るので働いている、ということもあるに違いない。むしろそうじゃないと世の中的にはまずい。  安いとなるとそれを労働力として営利に使おうと考えるのが必ず出てくる。世の中とはそういうものだ。あらかじめそう考えたほうがいい。抗菌グッズもいいけど、菌の絶滅なんてありえないんだから、菌にあふれた世の中での免疫力をつけることの方がかんじんである。  でも少くともぼくの頭の中には、稼ぐ労働とはまた別の趣味の労働のイメージが、点灯したのだった。  ストレッチの労働。  しかしストレッチというとフィットネスクラブでただ働きしている人体を思い浮かべる。ああなるとちょっとつまらないんですね。筋肉の純粋培養というか、面白味がない。どうせ体を働かすんなら仕事にした方がずっといいと思う。ストレッチしながら草がむしれていったり、木が削れていったり、家が建っていったりした方がずっと面白い。ただただベルトコンベアの上で歩いているよりは。  現役の世の中に紛れてのストレッチ、つまり趣味の労働である。この現実に紛れるというところが趣味の労働のかんじんなところで、それがうまくいくとほとんど芸術の労働だ。  ちょっと理屈っぽくなったか。  まあともかく、もうじき中古カメラ市。楽しいな、老人は。還暦ぐらいで老人ぶるな、いやそれはもう書いたが、しかし振り返ってみて、最近はあまり中古カメラを買っていない。別に買うだけが能じゃなくて使うことが能なんだけど、でもやっぱり、矢も楯もたまらずに中古カメラを買っていたころが懐しい。  いまだってもちろん中古カメラ市には行くが、見て歩くのが多い。買いたいのはたくさんあるけど、またこんど、ということになって、ちょっと余裕ができてしまった。  競馬場にもそういう人がいる。予想屋。黒板を立てて、次のレースのことをいろいろ講義している。競馬に詳しく、物凄く知識がある。そんなに先が読めるんなら自分でも馬券を買えばいいのに、と思うけど、自分では買わない。  自分はもう昔にさんざん買って、大儲けとかいろいろあった末にすってんてんになった人が多いそうだ。だから自分では買わないけど知識はあって、予想はできる。でも予想は必ずしも当るものじゃないということも知っている。だから自分はもう博打からは引退している。  じゃあ何かい、お前さんがその中古カメラの予想屋なのかい、といわれたって、いえいえ滅相もありませんだけど、ただ位置的にそういうところにいるということ。  ぼくの知識なんて知れたものだけど、ただ昔ほど中古カメラの物欲に気が転倒したりはしない。良いのや珍しいのを見つけると、ずうっとそこにあってくれと思うだけだ。とりあえず誰か買って持っていてくれ。世の中からなくなってしまうと困るけど、誰かが買ってどこかに保管されていればそれでいい。まあそう思っている方が気が楽なのだ。 [#改ページ] [#1字下げ]朝の新聞を見ていて考えた[#「朝の新聞を見ていて考えた」はゴシック体]  うちは新聞を二つ取っている。AとB。  うちは家族二人。ぼくと妻。  朝、新聞を取ってきて、朝食のあとそれぞれ新聞を広げる。ぼくはまずB。妻はまずA。  Bには野球記事が多めに載っているので、まずぼくというわけ。  一通り目を通すと、互いに交換する。AとBとはいえ、同じ日の新聞だから、載っている記事はだいたい同じ。でも文化欄などは違う。  社会面の記事でも、扱い方がちょっと違って、その違いを見るのも面白い。Aはまずタテマエ第一だからなあ、とか、Bはどうも紙面構成がAのマネをしているなあ、とか。  でも日本の新聞はほとんど同じことをしていますね。みんな似かよっている。二つ取るとその違いもわかるけど、それよりもその似かよってることにまず驚く。それぞれもっと勝手な構成をやればいいのにと。  ページ数もだいたい同じだから、二人読み終るのはだいたい同じ。終ったら、 「はい」  といって交換。とはいえ互いにやはり読む個所は違うようで、読み終りのスピードには多少のばらつきはある。  先に読み終って、ぽんと畳んでテーブルに置き、窓の外を見る。今日はあんがい暖かそうだなと思い、遠くの竹の葉先が少し揺れているのをじーっとチェックしたりする。風が少しあるぞ。  そのうち向うが新聞を読み終り、畳んで、 「はい」  ということになり、そうやって二人で二つの新聞で朝の時間潰しをしている。 (画像省略)  この間変なことを考えてしまった。朝の新聞の時間潰しが終って、ぼーっと窓の外を見ていた。ぼくらは朝のエンジンのかかり方が遅い。新聞はAもBもだいたい読み終り、というかめくり終り、仕方なくこんどはチラシを見ている。AにもBにも同じくらい折り込みのチラシが入っていて、日によってどんと分厚い場合と、ごく薄い場合とある。その波もまたAとBは同じ。  チラシの場合はそう熱心に見るものじゃないけど、でも一通り見なければ気が収まらないということもあり、とにかくざっと見てから二つに折る。  その日はチラシの束が二つとも妻の方に行っていた。こちらが新聞ABをめくり終ってぼーっとしていると、テーブルの向うで妻がチラシを一枚一枚見てはこちらに出している。ぼくもぼーっとして見るものがないので、そのゆっくりと出てくるチラシを一枚一枚、見ては重ねる。  不動産。  回転寿司。  ピザの配達。  家具の安売り。  いいなあ、懐石料理だなあと思った。このリズム。 「あのね、新聞も一束まとめてどんとじゃなくて、少しずつ懐石料理みたいに出してくれるといいね」 「…………」  妻は黙っている。また変なこと、と思っている。 「ふつうは新聞は玄関に配達されてくるけど、今日は誕生日だし、新聞もちょっと贅沢しようか、というときに懐石コースにしてもらうんだよ。そうするとね、新聞ぽんと一束じゃなくて、仲居さんみたいなのが記事を一つずつ持ってくる」 「ははは」  妻が察して笑った。 「まず小さな事件からね」 「大田区で起きた自動車事故でございます」 「それで、高級料理みたいにちょっとだけ内容を説明する」 「この事件は買物帰りの主婦の乗った日産マーチが、うしろから来た三菱パジェロに追突され、日産マーチは大破。主婦は全治三週間の重傷でございます」 「大蔵省の収賄事件でございます。課長補佐の榊原正人の逮捕が中味で、大手銀行が四社しており、ノーパンしゃぶしゃぶがからめてございます」 「江戸川区の小岩中学校での暴力事件でございます。二年D組の少年Aが、三年E組の橋本竜太郎君に重傷を負わせております。凶器にはバタフライナイフを使用し、これを少年法でくるみ、有識者のご意見を添えてあります」  そうやって落着いた雰囲気のテーブルに、着物姿の仲居さんによって新聞記事が一つ一つ運ばれてくる。  ふつう新聞を広げると、そこに全部いっぺんに、幕の内弁当みたいに記事が並んでいる。あれは一種の旅館料理みたいなもので、いちどにばっと並べられるとまず満腹感が先にくる、ということがある。だから読めば読めるような記事でも、そのまま視線がすっと素通りして読み残してしまう、ということになる。  じっさい新聞の休刊日など、朝食のあと、 「え、何だ、今日は新聞なしか」  というので、といってやはり食後の時間潰しは必要であり、仕方なく前の日の新聞をもう一度広げて読んだりする。前の日の食べ残しをもう一度チンして食べるようなもので、まあしかし何もないよりはいい。  で、いちど読んだはずの新聞をもう一度広げて見ていくと、けっこう読めるところが残っているんだ。焼き魚でいうと骨の隙間に隠れてけっこう身が残されており、頭のところなど、目の下の頬にあたる部分にぽこっと身があったりして、 (お、得した)  と思ったりする。だから新聞も二度読むとまた新しく読めるところがある、場合もあるんだけど、それをふつうは旅館料理みたいにいちどにお膳の上に全部並ぶので、ざっと箸をつけただけで終ってしまう。  それを懐石コースにして、小さな記事ごとに一つずつ持ってきてくれると全部読めるのではないか。  とくにぼくは若いころ胃を切っているので、残念ながら人よりちょっと胃のキャパが小さい。野菜類ならまだいいけど、トンカツとか鰻丼となると、普通人の半分くらいしかいかない。  脂っけの強いのが駄目なんですね。  嫌いじゃないですよ。鰻なんて匂いがいいし、よし、と思って食べても、たいてい半分くらいで後悔する。だんだん箸のスピードが鈍ってきて、 (ほう……)  と溜息をついたりする。目の前に妻がいる場合には、 「ほらまた」  といって睨まれる。睨まれたって、こちらは障害者なんだ。胃を三分の二切っていると、徴兵制になったっていちばん下の丙種合格に落とされるんだぞ。  というまでもなく、もう還暦では兵隊に行けないけれど、とにかく、いちどにはムリである。どーんとお腹がふくれてしまって、これは致し方ない。  でも食欲はある。食いしん坊はたしかだから懐石なら強いぞ。  編集者に大食漢がいて、仕事に行くときはまず食事と酒の段取りから決める。ぼくはこういう人が好きだ。大蔵省だったら大変である。でも民間はまず酒と食い物ですよ。それが楽しくて仕事をするんだから。大蔵省も民営化にすればそう逮捕にびくびくすることはなくなる。国営だからまずいんだ。何とか代議士も、首まで吊ることはなかった。みんな誰もがやっているのに何故自分だけ、という気持は真実である。綺麗ごとをいいだすと世の中全部汚いんだから。  抗菌グッズで解決するかというと、それは免疫力低下でさらによたよたになるという現実がある。民主主義というのにルビを振ると、キレイゴト、となる場合が多いんですね。そのキレイゴトをぎゅうぎゅう詰め込んだお陰で、いまの子供たちはナイフ片手にふにゃふにゃしている。  で、懐石料理。別に上品とかいうのではなく、あの小出しにするシステムである。その大食漢の編集者と沖縄に行ったとき、沖縄の小料理屋へ行った。名品が少しずつ、懐石ふうに出てきた。十年物の泡盛でちびちびやってじつに良かった。大蔵省だったら大変だろうな。  で、ぼくは全部食べた。じつにうまい。大食漢ももちろん全部。 「先生よく食べますねえ」  といわれたけど、このペースならいくらでも食べられる。最後のデザートまで平らげて、その店を出て、もう一軒行った。来る前に居酒屋ふうの店を見つけていて、そこの炒め物が美味しそうだったのだ。帰りに寄ろう、とかいいながら来たのだけど、ワンコース食べた後だから、大食漢もその店のことは考えから外していたらしい。でもぼくはマジメだからまだその考えが残っていて、帰り道、その店の前で足を止めた。 「お、行くんですか」  と大食漢はいう。行きますよ。何かもう一つ、お腹が落着かない。大食漢は嬉しそうな顔をして、 「いや行きましょう、行きましょう、しかし丈夫ですねえ」  といわれながら、その店で何とかチャンプル、何とか焼きソバとかいろいろ食べた。  つまり懐石料理のシステムで、ゆっくり時間をかけながら少しずつちょびちょびと食べれば、ぼくだって全部食べられる。  大食漢にはそれが驚きだったようで、 「いやあ先生は食べますねえ」  というのが以後口癖となった。  たぶんその大食漢は、満塁ホーマーごつーん、という食べ方しか親しんでなかったのだ。ぼくの場合のようなフォアボールやバントでこつこつと一点ずつ入れるやり方はショックだったらしい。  ぼくだってバント作戦というのはあまり好きじゃない。満塁ホーマーごつーんという方が好きなのだけど、胃にハンディがあるのだから仕方がない。嫌なバント戦法をとってでもたくさん食べたいというような食いしん坊なのである。  懐石料理というのはバント作戦なのだった。フォアボール、盗塁、あるいは敵のエラーを誘ったりして、とにかくこつこつと粘り、時間をかけて、一点ずつ取っていく。一品ずつ食べていく。  懐石料理も本当に高級なところはちゃんと時間も見計らって、前の料理を食べ終って一服したころに次のが出る、その流れを綿密に考えてやっているのだろうが、この間行った懐石料理はちょっと間が空きすぎる感じがあった。  懐石といっても近くに出来たホテルの和食のレストランで、試しに行ってみたのである。五、六年前にはじめて行ったときには、料理は美味《おい》しいんだけど、仲居さんというか和服の店員がきゃあきゃあ走り回って、障子の外の通路ではあるけど信じられなかった。もう二度と来ないと思ったけど、ほかにないし、五、六年たつと時効が効いてくるんですね。  店員の雰囲気は正常になっていた。料理もふつうに美味しくて良かったんだけど、ちょっと間が空き過ぎる。ぼくのお腹にとっては有難いが、美味しさのためにはもう少し連続性が欲しいと思う。  新聞記事を懐石スタイルにする場合にも、その辺の配慮が必要だろう。いやそんなことになるわけはないが、でもそんなことを考えたのだった。 「日銀課長の逮捕でございます」 「沖縄でとれた普天間基地返還問題でございます」 「プロ野球オープン戦、巨人・広島、四対二で広島でございます」 [#改ページ] [#1字下げ]眠る力を探る[#「眠る力を探る」はゴシック体]  老人力とは眠る能力のことである。ある意味では。  生れてこの方、眠る苦労を知らないという人は、しあわせである。  人間たしかに、一日仕事をして、疲れたらばたんきゅうで眠れる。苦労なんていらない。だいたいそうであるにしても、ときたまそうはいかなくなるのが人生。  眠ろうとして眠れない夜、人は人体の不都合を感じる。自分がいま眠ろうとしているのに、なかなか眠れない。自分の人体は自分のものなのに、どうして自分の思い通りにいかないのか。  二十代のころはその「眠れない、眠れない」が高じて、ノイローゼになった。もとは心臓の鼓動のことで、ひょっとして止るんじゃないかと思いはじめて、とうとう不眠症というわけである。眠れない夜に、人体の不都合をつくづく感じた。いま思えば老人力の持ち合せがまるでなかったのだ。  いまはもういいのだが、でも眠れない夜が何か月に一回かはやってくる。もう心臓の不安には欺されないが、いまあるのは腕のむずがゆさだ。若いころの不眠症を克服して中年になり、もう一度そういう別の形で不眠症がきたときには、何だか笑ってしまった。しつっこい奴だ。  とにかく、さて眠ろうとしていると、その寝入りばなに腕の肘のところが何だかむずがゆくなる。気のせいだとか、何かの間違いだとか思って無視していると、ますますむずがゆくなる。何だこいつは。  肘の関節のあたりがムズムズして、そのムズムズがイライラになってふくらんできて、ぜんぜん眠れない。  腹が立った。若いころは眠れないことに恐怖がふくらんだりしたが、歳をとって少しは図々しくなったのか、怖いというよりは腹が立つ。  とにかくムズムズ、イライラして眠れないので「このバカモノ」とかいいながら起きてしまう。若いころの不眠症で、もう処し方はわかっている。とにかく眠らなければいいのだ。眠ろうとするから敵の術中にはまってしまう。敵とは自分の人体。  自分の人体だからふだんは味方だけど、たまにこういうとき敵に回る。  この敵には理屈が通じない。説得してもムリである。だから一切無視して、もう夜中だというのにむっくりと起きて仕事をする。  もともとは仕事の区切りをつけて、やれやれというので軽く何か一杯飲んだりして寝たはずなんだけど。それがまた夜中に仕事再開である。理不尽だとは思うが、敵がそういう手に出たのだから仕方がない。もう一度何か原稿に立ち向かったり、本を開いたり、急のことだから気分はのらないのだけれど、とにかくムリに仕事をしながら、だんだん明け方近くなってくると本当に疲れてくる。もうアホらしくなってくる。ということは、少し神経がゆるんだのだ。そこをなおも仕事をつづけていると、もっと疲れて、もうこんなことはやめたというので寝床に入ると、そこでやっとばたんきゅうの境地に到り、気がつけば眠っていた。  そういうことが、まあ最近はほとんどないが、年に一回か二回かはある。  つまり眠るというのは時として厄介なことで、問題は、覚醒時の理屈が通じないことである。  つまり眠ろうと努力したら眠れないのだ。  眠らない努力なら出来る。会議中など、眠くて眠くてたまらないところを、努力して眠らずにいる。その努力は可能である。  でも眠る努力は不可能だ。眠ろうと努力すればするほど眠りがこじれて、目が冴えてくる。  前に忘れることでも書いたが、忘却力もそうだ。忘れようと努力すると、ますます忘れられない。努力して覚えることはできても、努力して忘れることはできないのだ。  眠ることも忘れることも、努力をもってしては到達できない。でも人間は日々眠り、日々忘れている。これはどうしてだろうか。人生開始以来のすべての現象を全部記憶にとどめて忘れられなかったら、事実上頭はパンクして生きていられない。でもじっさいにはまあテキトーに忘れるので、何とかふつうに生活している。  ここで重要なのは「テキトー」である。テキトーであることがぼくらを眠らしてくれて、物忘れを実現してくれる。そのテキトーとは何なのか。どう定義すればいいのか。  これが難しい。定義するとは、テキトーを排除することである。だからテキトーを定義すると、テキトーではなくなる。困りましたね。  でも定義しよう。テキトーとは反努力のことだ。  物質があって、反物質があるという。それと同じように、努力があって、反努力がある。  努力の反対、じゃあ怠けることか、というとちょっと違う。あえていうと、怠ける力、というより、努力しない力ということになるのか。  眠る、忘れるということを可能にするのは、反努力の力である。ぼくらは反努力によって眠ることができるし、反努力によって忘れることができる。そういう努力しない力というのが、この世のどこかに、ぼくらのどこかにあるはずなのだ。  その反努力の力というのが、老人力の実体ではないのか。  もう一度眠ることを考えよう。寝床の中で眠れない。そこで眠ろうと努力するとますます眠れなくなる。そこで努力を反努力に切り換える。つまり努力を目標から外して別の方に迂回するのである。つまり当の目標をとりあえず放置することでその努力が実り、その結果、疲れて眠くなる。  忘れるのもそうだ。忘れようという努力を反努力に切り換えることで、忘れることが可能となる。 (画像省略)  いまの少年犯罪を見ていてつくづくそう思うんですね。中学生の荒れ放題の状態。  中学生というとすぐ教育問題ということになり、学校教育、家庭教育の改善の努力をする。でもぜんぜん成果は上がらない。そこを何とかというのでまた努力する。ぜんぜんだめ。  ぼくの人体でいうと、眠ろうとするときの肘のムズムズである。眠ろうと努力すればするほどイライラが募る。そこで有効なのが老人力、いや反努力だった。当面の問題を放置して、努力を別の方向に迂回させる。  少年問題もそうで、教育、徳育、勉学の改善の努力ばかり積み重ねても、それは理屈では正しいけど、ムリ。だからとりあえず教育問題は放置して、あっさりと仕事をさせればいいのだ。大工仕事、畑仕事、河川工事。給料もちゃんと与える。答案用紙に〇×をつけるだけの仕事よりも、木を切って釘を打って物が出来る、給料ももらえるという仕事の方がよほど面白い。人生が面白ければ、とりわけナイフを持つ必要もないし、あえて血を見る必要もない。教育なんてそれからだ。  昔は学校に行かずに働く子を可哀相だといったが、いまはむしろ働けずに学校に行っている子が可哀相だ。昔は可哀相だった売春が、いまではそれ自体がファッションになっているような時代に、一元的な努力の届く範囲は知れている。反努力を現実問題として考えないといけないんじゃないか。  反努力というのは、ある種の自然主義でもあるし、他力思想のようでもある。  下手の考え休むに似たり、というが、人間の頭の限界というのは必ずあり、またその限界を超える可能性も人間は持っている。でもその二つは一筋縄ではいかない。ある種の複合性をもって進んでいくもので、努力と反努力の暗黙のサインプレイで、それは目標に近づいていく。  いまの世の中は自力思想というか、自主独立というか、個人の自由というか、とにかく「自」というものが正義のシンボルとなっている。ものごとは自分で決める。独自の考えで、自由な発想で、ということをすぐいわれるが、自分がちゃんとある人はいい。でも自分が大してない人が「自由」な発想でやると、単にめちゃくちゃになる。  でもそれでいいんだという人もいて、人間の頭というのはいったん「主義」に頼ると、主義以外は判断停止の状態におちいる。  おしなべて、自分なんてちゃんとない人が世の中には多い。それがほとんどだ。本当は「他」にまかせないといけないことがあるんだけど、それは逆にこの世の中の自由主義が許さない、というので世の中はどんどん自由の主義によって硬直していく。  戦争や台風、洪水その他、大自然のときたま発する暴力がその主義の硬直を解くきっかけになっていたが、もうこの時代に戦争はムリだ。  いや戦争はいろいろ問題があるから別にして、この世の中には台風や地震がいやおうなく襲ってきて、そこで自分本位の考えが打ち砕かれる。反努力というまでもなく、反努力の実質を暴れる大自然が与えてくれていた。  いまは人間が大自然の暴力をかなりの部分制御している。日本中の川という川はコンクリートで固められて、日本中の便所という便所は水洗便器で塞がれた。それで額面上は楽になったというけど、人間は努力のほかに反努力というものを考えなければいけなくなった。  つまり他力を待つだけでなく、自分で自分を他力的世界に誘導していかないといけない。ちょっと話が面倒になりましたね。  ぼくも案外これで理屈っぽいところがあるのだ。理屈の大筋をどんと進めるときはいいけど、理屈の刃こぼれとか理屈の小さなささくれが気になってしまって、そうなるとそこを細かいヤスリで削って磨いて、やたらに細かい作業に没頭していく。それが絵とか工作の場合は見事な作品、というのに結実する場合もあるけど、理屈の場合は、あまりに細かい作業では収拾がつかなくなる。  不眠症になるわけですね。  でも少しわかってきた。  老人力という言葉はよく誤解される。老人に残された力、という誤解が多い。ちょっと重い荷物を前にして、 「いやあ、このくらいの物、まだまだ老人力で頑張りますよ」  というようなこと。それで持ってみてぎっくり腰になるというのは、単なる力の欠乏で、結果としてはいわゆる年寄りの冷水で、そこでいう力は老人力とは違うのである。  正論としては「マイナスの力」だけど、正論というのは正し過ぎて、頭で理解してももう一つ手応えがない。通じにくい。  眠る力、ということでかなり手応えがつかめるのではないか。世の中に眠らない人はいない。もっとも眠る苦労をまるで知らないという人に、眠る力の存在を察知できるかという問題はある。  忘れる力ではどうだというと、これも世の中には忘れる苦労をまるで知らないという人がいる。いますねえ、こういう人。ぽんぽんぽんぽん、イチローがヒット打つみたいに、どんどん忘れる。  考えたらぼくは眠るのが苦手だといいながら、忘れるのはけっこう得意だ。不眠症にはなるけど、不忘症にはならない。  でも一方で、 「お前よくそんな細かいこと覚えてるな」  といわれることはあり、何の役にも立たない小さなことを何故か覚えてるということはある。  でもそれは苦労にはならない。眠れない苦労というのはあるけど、忘れない苦労というのはまだない。眠るのと忘れるのとは、やはりどこかちょっと違う構造下にあるのだろうが、今後の課題として忘れないでおこう。 [#改ページ] [#1字下げ]東京ドームの空席[#「東京ドームの空席」はゴシック体]  東京ドームの切符を二枚もらった。有難いことである。出版社の関係で、まあお中元みたいなものなのだろう。  巨人 vs. 横浜戦だ。今年(一九九八年)の巨人はまあまあ、つつがないスタートを切った。開幕ヤクルト戦三連勝。もちろん成績としては申し分ないが、それ以上に、とくにこれといった不吉なプレイがなく三連戦がスタートしたので一安心である。  それというのも、去年はヤクルト小早川にいきなり三打席連続ホーマー。あれはまさかという感じで、じつに不吉な予感がした。その通りになった。  その前の前の年はやはり開幕ヤクルト戦だったと思うが、開幕二戦目の桑田が、それまで絶好調の投球をしながら、七回だったか、思いもかけぬ危険球で相手選手が昏倒、桑田退場。まさかという物凄い不吉な予感が生じて、その試合は結局どーんと暗く逆転されてしまって、それからずるずると沈んでしまった。  というので今年の開幕、まずつつがなくスタートしたということでほっとしているのである。  しかし松井の不調はどうしたことか。何だか気持が晴れない。斎藤の不調はまあいままで好調すぎたことを考えればわからぬでもないが、ガルベスの成績が何となく不吉だ。ちゃんと投げて負けならまだしも、毎試合力を出し切れずに、変なことで自滅ばかりしている。本当は絶好調なのに。  等々、アンチ巨人思想の方々には嫌なことばかり書いたかもしれないが、まあたかがプロ野球。  で、東京ドームの切符を二枚もらったのだ。ぼくはまずあの大型紙コップの生ビールが頭に浮かんだ。球場で売っているやつ。ぼくはあのビールが大好きだ。  いろんなビールの美味しさがあって、イギリスのパブで立って飲むビターが味としては一番好きだけど、ナイターでの大型紙コップの生ビールはその次くらいだ。  巨人が勝っていたらぐーんとうまさがはね上がる。それから神宮球場か横浜球場だともっといい。ドームというのはやはりどーも気分が晴れない。ナイターはやっぱり空がすこーんと抜けてなきゃ。夜空にしても。  あのドーム球場の天井というのは、ボールが上がっても何だか雨天体操場でやっているみたいで、どうしても眺めが貧相で、何だかうらぶれている。雨の日でも予定通り出来るようにという考え方がそもそも貧相だ。 (画像省略)  でももらった切符に文句はいえない。もらうのは大好きである。前にも別の仕事関係でドーム球場のジャイアンツ戦の切符をもらい、そのときはカメラ仲間を誘った。で、行って番号をたどりながら着いた席は、何とバックネット裏の正面、しかも最前列だ。テレビ中継のとき必ずキャッチャーの後ろに映っている、あそこ。  こりゃ凄いというので舞い上がって、すぐうちに電話しましたよ。おい、テレビを見ろ、キャッチャーの後ろに映っているはずだぞって。  だからどうということはないけど、あのときはびっくりした。ああいう席は特別だと思っていたら、何の前ぶれもなくいきなり来たんだから。  で、今回、ぼくは小学校以来の友だちのY君を誘った。小学校のときはもちろん二人とも巨人ファンで、川上、青田、千葉である。あのころは地元チームのある人は別として、子供ならだいたいジャイアンツだ。それがふつうだ。良い悪いじゃなしに。  ぼくは子供っぽさが抜け切らないのでいまだに巨人ファンというわけだけど、Y君は大人になってから少々アンチ気味である。でもアンチ巨人といったって結局は巨人戦が見たいわけで、電話したらOKという。彼とも久し振りなので、球場の大型紙コップの生ビールを楽しみにしていた。  で、前日、待ち合せをどこにしようかと考えた。球場のある水道橋駅前じゃ大混雑で、出合えない恐れがある。どうせなら彼は新宿でぼくは小田急線だから、新宿駅のどこかで会って、それでデパートの下の食品売場でお弁当を買ったりして、それから電車で水道橋、ということにしよう。で、念のためにもう一度切符を確認、と思って探したら、ない。  え、そんな馬鹿な、と思ってもう一度探したけど、ない。ふだんそういうものを置くのは机の左と決っている。そこにないのだ。  出版社のAさんからの封筒で、手紙といっしょに入っていた切符を、確かに開けて見ている。見たあと机の左に置いたはずだ。そこに手紙やFAXが重ねてあって、それらはいずれも「重要」である。関係ないのはその日に捨てるし、少し関係があるのでいちおう、という手紙や書類はマガジンラックやその他、三か所ほど置き場所がある。そういうところを全部点検したけど、ない。  何かに紛れて捨てたのだろうか。それより自分の性格からして、大事にし過ぎて仕舞い忘れの疑いが強い。  そう思ってさらに何か所か探したけど、ない。  ちょっと疲れてしまった。どこかにはあるはずだ。それともやっぱり捨てたんだろうか。こんなことなら、仏壇の前にでも置いとけばよかった。  気配を察して、家人が注目してくる。 「いやあ、何でもない」  というわけにもいかずに、例の切符がないんだというと、ほら見なさい、と、一気に馬鹿にした表情になった。知ーらない、なんていっている。そりゃそうだ、そっちには関係ない、なんていおうとするけど、迫力がない。どうもいけない。  そんなに大事なものなら、最初から仏壇の前に置いとくとか、決めときなさいよ、と同じ考えをいうのでおかしくなった。日本人は無神論者だといわれていて、うちも二人そうだけど、でも仏壇というのは、やはり一目置かれてはいるようである。  もう一度、全部探したけど、なかった。  老人力。  ショックだった。こんなに大事なものにまで老人力は及ぶのか。  たしかにあの切符、どことなく影が薄かったなあ、と思った。いや、都合でいっているのではない。Aさんから電話があって、巨人戦の切符を送ったという、その電話を受けたのは家人だった。ぼくは直接は話していない。そのせいか何となく半信半疑で、切符入りの封筒が送られてきたけれど、お礼の電話なりFAXなりしようと思いながら、まだだった。封筒を開けて切符を一回見たことは確かだけど、そのまま仕舞って、どうも最初から影が薄かった。  なんて運命論的にいっちゃ切符が可哀相だ。運命のせいにしちゃいけない、自分が悪いんだ。と反省はしているけど、どうもね。  これまでも球場へ行って野球を見ながら、隣の席の人がずうっと来なくて、結局しまいまで来なかったということがあることはある。あれも切符の持主が、老人力のせいでどこかになくしてしまって、来られないのだろうか。  新幹線に乗っても、グリーンの良い席がいつまでも人が来なくてずうっと空いていたりする。あれもじつは切符の持主が、老人力で仕舞い忘れて諦めたのだろうか。  飛行機でさえもありますね、老人力が。いや老人力とは限らないかもしれないけれど、結局空席のまま飛び立って、空席のまま降りてしまう。老人力というのは贅沢だなあと思う。  いや空席が全部老人力によるものとは限らないが、でもその可能性はある。球場とか、劇場、音楽会、歌舞伎、新幹線から飛行機から豪華客船まで、あらゆる空席がすべて老人力によるものだとすると、凄いもんだ。  世の中に空席があれば、その分その家庭では老人力関係の人が部屋中を探し回っていて、ない、どこ行ったんだ、確かここに、とかいって、奥さんにも気がつかれて、 「そういう物は仏壇……」  とかいわれている。  老人力は空席をもたらす。これはなかなか優雅なことだ。一種のユトリである。全部ぎっしりじゃ満員電車みたいじゃないですか。でもところどころぽつぽつと空席があれば、ちょっと楽になるし、荷物置いたりできるし、必死の思いで立見覚悟で来た人が、ちょっと坐ることもできる。  老人力は眠る力だとか忘却力だとかいってきたけど、空席力でもあった。  色即是空  という意味は何だったか、書けといわれても書けないけど、たぶん空席のことにも言及しているんじゃないかと思う。  サッカーはぼくは見ないが、あのゲームの中にも空席が出てくる。オリンピックのときにテレビでアイスホッケーはよく見た。これもサッカーと構造は同じで、すぐチームに空席が出来る。反則するとペナルティーで何分間かゲームの外で待機するわけで、それが解けるとまた戻る。そういうのが一人だけじゃなく二人もいたりして、チームは空席を抱えたまま戦っている。途中でその空席がふくらんだり縮んだりするのだ。  それをも老人力といっていいのかどうかわからないが、ユトリではあるだろう。戦う場合はユトリがあっては困るというかもしれぬが、でもその分動きやすいということはある。  よく野球のバッティングなどで、ちょっとした怪我をしているときの方がむしろよく当たる、ということはある。怪我をしてその個所が痛い。だからその個所が使えない。つまり体の中に空席ができるわけで、その状態で「とりあえず」という感じでバットを握るから、怪我の分だけムダなリキみがなくなるということらしい。  もちろん大怪我はダメですよ。両足骨折で松葉杖でバッターボックスに立つといっても、それはムリだ。  まあ、老人力というのはその程度のものである。ちょっとした怪我の程度。でもその程度のことが重要なのだ。その程度のことは取るに足らない、と考えるのが従来の大怪我だけを問題とする考えであったが、老人力の場合はあくまで微弱な現象である。  東京ドームの席をふいにしたことからこんなところまで来てしまったが、ちょっとしたことが重要というのは、最近いろんな世界で目につく。複雑系というこのところ脚光を浴びかけている学問のことで、東大の先生のところに取材に行ったが、やはりちょっとしたこと、取るに足りないことを問題にしていた。  もっとも何でも新しい物や新しい考えというのは、ちょっとした取るに足らないことからはじまる。ふとした考え、ふとした出合い、取るに足らない冗談から、大発見大発明が生れたりする。  これは人間の頭のクセに関わることで、人間の頭というのはいつも最上の一つの考えにたどり着こうとしている。だからいつも取るに足らぬ考えが下の方には無数に堆積している。だから最上の考えが崩れさえしたら、その先にいくらでもふとした考え、ふとした出合いが待ち構えている、はずなのだ。  その試合、巨人 vs. 横浜戦は巨人が勝った。CHIKUSHO……、と思った。今日行っていたら生ビールがうまかったのにな、と思った。それというのもぼくが球場に行くとよく巨人が敗けるのだ。偶然だろうが。  点差は忘れたが、夕食のあと、仕方なくテレビで見ていた。満員の入りである。しかし満員といっても、厳密にいうと二つの空席がある。でもそこは途中から立見の「難民」が来て坐ったかもしれない。世の中にはわからないことがたくさんある。 [#改ページ] [#1字下げ]老人力は物体に作用する[#「老人力は物体に作用する」はゴシック体]  お茶の世界などで、侘《わ》びとか寂《さ》びという言葉がある。作りたての新品ツルピカではなく、それが長年使われて、少し壊れたところが補修されたり、少し汚れがついたり、染みが広がったりして、えもいわれぬ味わいが生れる。  あるいは秋になって枯葉が落ちて、きくきくと折れ曲がる柿の木の枝に、最後まで残ってしまった赤い実が一つ、熟しきって皺が寄りはじめて、ふとそばに鴉が飛んできて、かあ、と鳴いたりする。  日本的な美の感覚というか、美意識といいますか、古来より侘びとか寂びと呼ばれてきた感覚があるのだけど、あれはじつは老人力だと気づいて、なあんだと思った。  そうやって物体に味わいをもたらす侘び力、寂び力というのは、物体の老人力なのだった。とすると、老人力というのは日本文化だ。  老人力のはじまりは七〇年代の温泉ブームあたりからか、と前に考察したが、とんでもない、じつは桃山時代までさかのぼるのだった。人間のボケ味ともいわれる老人力は、古来営々と日本文化の底流として流れつづけていたのである。  いずれにしろ老人力というのは人間に広がるだけではなく、物体にも作用する。ぼくは長年シャープペンシルを使っているが、ここ十年くらいは〇・九ミリ芯を愛用している。神田金ペン堂特製のもので、いまは絶版。ホルダーはモンブランの、これも絶版になっているタイプの黒。とくに艶消しを愛用していて、いつも使っているせいか、指の当たるところがだんだん艶アリになってきている。ルーペでのぞくと極細の引っかき線のざら目で艶消しになっているのが、長年の指の当たりで擦り減り、引っかきのざら目が消えかけているのだ。  これの前は〇・五ミリ芯で、コクヨの中折れノック式のを十年ほど愛用していた。それは指の保持部分にもっと深い滑り止めの凹凸溝が刻み込まれていて、中心部ではその溝が消えるほど擦り減っている。横から見ると明らかに指の当たる表面が湾曲していて、そのゆるやかな曲面はなかなか味わいがある。  物体にも老人力がついてくるのだ。マイナスの力が作用して、それが独特の味わいになってきている。  この感触から明らかになるのは、老人力は味わいを生む力だということ。だから古くなってダメになればそれはみんな老人力、というわけではない。古いが故の快さ、人間でいうとボケ味、つまりダメだけど、ダメな味わいというのの出るところが老人力だ。そこのところ、アメリカ人には絶対にわからないだろう。  いや差別するわけじゃないが、アメリカは老人力理解不能の国だと思う。若さとパワーだけを頼りに全員ライフルを手にしてひたすら前のめりの一つ覚えでやってきた国だから、日本人にいきなり、 「老人力」  といわれても、え? といって、きょとんとした顔しか出来ず、とりあえずライフルを空に向けて一発ぶっ放すだろう。  アメリカ人の使うシャープペンシルでも指の当たるところは擦り減る。でもその擦り減った曲面がどうのなんて、考えない。  いや、そうじゃなくて、アメリカ人のペン軸というのは擦り減らないんじゃないか。すぐ失くしたり、すぐ壊したり、あるいはすぐ捨てちゃったりして、長年の間に擦り減るというイトマはないんじゃないか。  日本でも成金の方たちが意識的にそういう風で、ちょっとでも古くなるとすぐ嫌う。古くなって擦り減ったのは即貧乏と考える。成金には一山当てないとなかなか成れぬものだが、でも成金に憧れる人は多く、日本人一般がそうである。古いのを貧乏と考える点で非常にアメリカ文化だ。とくに戦後の特徴。正しくは明治以降か。  しかし貧乏問題はもう一度考え直す必要がある。貧乏はたしかにダメだけど、ダメな一方で味わいがある。ということを、しかし主張するのは難しい。みんな貧乏は嫌で、金には目が眩むから。  というので、それを別の口調で、侘びとか寂びとか、あるいは清貧とかいってその入口を開けてきた歴史があるのである。  清貧ということなら、アメリカ人もいちおうわかる。宗教があるからだ。キリスト教に限らず、だいたいの宗教が清貧はいいものだと教えている。アメリカ人だって物欲の後ろめたさが少しはあろうから、宗教からいわれたら少しは耳を傾ける。  でも侘びとか寂びは宗教ではない。カテゴリーとしては趣味である。じゃあ宗教みたいに脅される恐れはないというので、ライフルの台尻でどしんと払って通り過ぎる。  宗教というのは、いわばあの世の税務署だ。あの世の税務署の出張所の、一種の予定納税みたいなもので、それをしないと地獄へ行くから、アメリカ人といえども無視はしにくい。その宗教にいわれるから清貧までは理解する。でも侘び寂びはムリだ。 (画像省略)      *  アメリカ人は西洋人だけど、西洋人がみんなアメリカ人とは限らない。アメリカ人の実家のイギリスは老大国といわれるように、老の字には縁がある。当然老人力は漂っている。本人がそれを老人力として意識するかどうかはまた別だけど、その素養はあるのだ。  フランスなんかもそうで、パリやその他の街を歩いただけでも、石畳や、橋や、建物の壁や、そういった物体に老人力がついてきている。  ただそれを老人力とか、侘びや寂びとかいわないだけだ。つまり自分たちの論理世界の外に放置して、それに当り前に慣れ親しんでいる。  日本の場合は侘びとか寂びとかいうけど、いまはそれを逆に論理世界だけの、特殊な物件にしてしまって、自分たちの慣れ親しむ生活世界は新建材のツルピカ趣味になっている。アメリカに無条件降伏したんだからムリもないが、アメリカ文化に侵食された。  ぼくはその辺が子供のころにはよくわからなかった。西洋とアメリカは一体だと思っていたのだ。桃山のころはともかく、近年黒船で乗り込んできた西洋人はアメリカであり、原爆投下で戦後乗り込んできた西洋人もアメリカだから、西洋即アメリカだと思ってしまうのもムリはない。  アメリカ人は老人力はないけど、屈託がないし、やはり物を持っているから人気絶大だった。ぼくらの子供のころの話。金に目が眩むというけど、物に目が眩んでしまって、ころっとアメリカ万歳になってしまった。  ぼくらにとっては西洋万歳でもあったわけで、それはまあ明治以来の伝統である。  ぼくの中学というともう戦後四年目ぐらいになっていたのか、パク先生という不良っぽい先生がいて人気があった。体育と音楽の先生で、授業中に勉強以外のことをいろいろ話してくれた。雨の日の体操の時間の話がずれていって、喧嘩の仕方まで教えてくれた。教壇の上で喧嘩のときの構えをやってみせて、その冒険的な授業に、ぼくらは目を輝かせてどきどきしていた。  おしゃれについてもいろいろ教壇の上から話してくれて、イキな着こなしを教わった。たとえばシャツを着てズボンを穿いてベルトを締めたあと、必ず一度体を前かがみにして、シャツの下のところに多少のふくらみをもたせろという。きっちりとシャツの裾をズボンの中に入れたままのは、固くて野暮ったい。  ズボンの裾をまくるときも、片方の脚を一つ多くまくってみせるとか、床屋に行ってきたら、店を出てちょっと行ったところで一度両手で髪の毛をばさばさとほぐすとか、いろいろと崩す美学について教壇から教えてくれた。  フランス人は、背広を新調してもすぐには着ない。何か月か窓のところに吊しておいて、少し日にやけたり固さがほぐれたりしたところで着る。それが本当のおしゃれなんだ、新品をそのまま着るなんてセンスがないと、その話は強く印象に残っている。  この間郷里での会合があり、そこで久し振りにパク先生に会った。髪は真っ白だけど、相変らず不良っぽい面構えで、握手した掌も相変らず分厚くて力強かった。話がはずんで最近の世相のこととか、昔の授業のことなどに及び、ああいう少し崩した感覚についての話は凄く印象に残っているというと、 「俺はね、お前たちにヨーロッパを教えたかったんだよ。イギリスとフランス。とにかくアメリカ風にはなって欲しくなかった」  といったのでちょっと驚いた。アメリカ化を避けようとしていたのか。そんな深慮遠謀があったのか。当時ぼくは、ただ西洋の身だしなみを教えられたと思い、アメリカとヨーロッパの違いなんてぜんぜんわからなかった。多少なりとも老人力のついてきたいま、やっと老人力欠乏症のアメリカを困ったもんだと分別しはじめたところなのに。  ぼくはパク先生を見直してしまった。恩師尊敬の念もさることながら、四十年以上もたって、その尊敬の伏線を新しく見つけて見直すなんてはじめてのことだった。  アメリカ風になって欲しくなかったというのは、パク青年の敵国アメリカ、という意識も多少はあるのだろうか。いやしかしそんな戦争関係のことよりも、アメリカ的なものとは違う本当のおしゃれ心を教えたかったのだろう。      *  いわば老人力の伏線である。いま地球のボスとなっているアメリカには老人力がない。そのことに、自分に老人力がついてきてやっと気がついた。  物体に老人力がついてくる。茶碗や皿に老人力がついてくると、骨董と呼ばれはじめる。アメリカにも骨董屋はあるのだろうか。まああることはあるのだろうが、それはみんなネウチもののような気がする。金で解決する、たとえば日本の社長室にあるといわれる虎の敷皮、鹿の頭、博多人形、象牙のナントカといった、ネウチ以外に面白味の何もないもの。アメリカの骨董屋にはそれ的なものばかり並んでいるように思うが。  ぼくのいつもの散歩道に、ルノー・キャトルというフランス車を停めた家がある。一時代前のフランスの国民車で、これがなかなかフゼイのあるスタイルで、いつもいいなあと見ていた。それがある日、プジョーの新車に変っていた。やはりフランス車だけど、遂に買い替えたのだろう。遂に。  というのも、乗る人にいわせると、ルノー・キャトルは見ている分にはフランスの田舎風でいいんだけど、乗ると恐ろしく不便なんだという。故障も多いし。  ぼくは運転しないのでわからないが、たしかに一度雑誌の取材で乗せてもらって驚いた。相当がたついた運転席で、ぼくが驚いたのはワイパーが収まらないこと。ワイパーなんてふつう使わないときは窓の下まで下りて控えているものだが、これは窓ガラスの途中で止ったまま。それ以上収まらないんだという。  凄いもんだ。よくその設計で作ったと思う。ある意味で老人力だ。というより、何だか野蛮力という感じもあって、しかしこういった車の形態的魅力は、そういう細かいことに無頓着な力から生み出されるものなのだ。とはいえ機械というのはまず機能あってのものだから、そこのところの食い違いは困るのである。魅力はあるけど、機能的には不便、というアンバランスを、どこでどう折り合いをつけるか。  というところで、しかしルノー・キャトルはプジョーの新車に替ってしまったのだろう。遂に。  老人力の一つの要点である、侘びた茶碗にしろ、侘びたペンにしろ、それはアメリカ人にいわせるとダメな茶碗、ダメなペンだ。それをすぐ捨ててしまうアメリカ人がいて、それをまたすぐマネしたがる日本人がいる。いやいてもいいんだけど、捨ててどうなる。猿じゃないんだから。いや失礼。でもどの道終末は近いのだ。 [#改ページ] [#1字下げ]タクシーに忘れたライカ[#「タクシーに忘れたライカ」はゴシック体]  ライカは老人力のカメラとして有名である。最近のカメラとは違う。最近のカメラはすべてオートだから、シャッターを押すだけで写真が撮れる。それだけ。  でもライカはそうはいかない。シャッターを押して写真を撮っても、妙に画面が白っぽかったりして。 「あ、絞りを合わせるの忘れてた」  ということになる。あるいは撮った物が二重にブレていて、 「あ、シャッタースピード考えるの忘れてた」  ということになる。あるいは、絞りもシャッタースピードもちゃんと合わせて、ピントももちろん合わせて、よし、と思ってシャッターボタンを押してもシャッターが切れない。もう一度押しても切れない。 「あ、巻き上げるのを忘れてた」  ということになる。  そんなわけで、ライカには老人力があふれている。というか、もちろんライカそのものはしっかりした真面目なカメラなんだけど、それを手にしたとたんに、こちらの老人力があふれ出るのだ。  でもライカにはひかれる。厳格で、気品があるのだ。上品なお金持のおじさんという感じで、真面目にしていると何かお菓子でも買ってくれそうな雰囲気である。  最近はお金持は多いけど、上品なお金持はなかなかいない。だいたいは下品だ。  そんなわけで、ライカに憧れる人は多い。日本中のあちこちでライカの愛好会、同好会、クラブといったものができている。年齢層としては圧倒的に老人、もしくは初老、もしくは初々老といった層で、いずれにしろ老人力にあふれている。  いまどきの世の中でライカが好きになるのは、必ずや老人力が原因している。そして老人力は誰の体の中にも、デビュウを夢見て潜んでいるのだ。昔はライカといえばもちろんプロか、よほどのお金持のおじさんぐらいしか関心のなかったものだが、最近はそれがぐっと低年齢化し、共産化してきた。人民のすべてがライカに関心あるんじゃないかと思うくらい、最近はライカに関する出版物は湯水のようにあふれている。  で、ぼくもご多分にもれずライカが好きで、必死の思いで買ったりもしている。そうすると同じ穴のムジナというか、同病相哀れむというか、ライカの独特の磁力によるライカ場というのが形成されたりするもので、ぼくの場合はライカ同盟というのに加入している。  同盟員は三人。もうこれで満員という小さな同盟で、メンバーは写真家高梨豊、モト東京都知事候補秋山祐徳太子、そしてぼく、という各氏。もういまはみんな還暦を過ぎている。  でも同盟が出来たときはまだ三人とも還暦なんてまだだった。三人がたまたまライカ自慢をはじめて、それでいつの間にか同盟が出来た。三人ともそれぞれ知ってはいたが、ライカを挟んでまた思わぬ出合いがあったということである。  このライカ同盟が出来てからはあちこち撮影に行って、展覧会も何度かしていて、写真集も出している。もちろんライカで撮影をするんだけど、ほかのカメラでも撮る。思い込んだらライカだけという国粋主義者ではなく、まあ人生いろいろあるよという感じで、まあぼちぼち、人間ちょぼちょぼである。 (画像省略)  でも来年は「パリ開放」というのを計画している。これはライカ同盟結成のときから盛り上がっているアイデアで、パリを絞り開放で撮る。  カメラには絞りとシャッタースピードというのがあって露光調節をするわけで、最近のオートカメラだけ使っている人にはちょっとわかりにくいだろうが、F2ならF2のレンズの絞りをいっぱいに開くのを絞り開放という。  その絞り開放で撮ってパリがどうなる、というご意見もあるだろうが、考えてみたら、それもそうだ。でも考えなければ「ライカ同盟」の「パリ開放」といっただけでも楽しくなるので、そこは一つ来年、実行の運びとしたいなと思っている。  開放で撮るとどうしてもボケやすいし、露出オーバー気味にもなりそうで、これはいよいよ老人力の表現が爛熟してくるのではないかと、期待している。  そんなことを考えている最中、ぼくは東京ドームの巨人戦のチケットを二枚失くしたことは前に報告したが、この間の同盟会議の折、高梨さんが愛機のライカM6を失くしたという報告をしたので驚いた。  高梨さんはプロであり、ライカ同盟では家元である。ぼくはセミプロというかアマチュアであり、秋山さんも同じ。  プロの機材というのはやっぱり違うもので、ぼくは高梨さんのもう十年以上も使い込まれたM6のブラックを、さすが、と思って見ていたのだ。十年以上も使い込んで、表面の黒い色がうっすらと剥げて、地のアルミ合金の色が出てきている。  M6以前のM4とかM3の黒塗りであれば、塗りの剥げたところから真鍮の金色がのぞいて、これがまたいいのだけど、M6の場合は真鍮ではなくアルミ合金で、黒といっても塗りではなくメッキだから、剥げにくいし、やっと剥げてものぞくのは地味な灰色である。  でも塗りが剥げるならともかくメッキが剥げるのは相当なことで、それがとうとう剥げてうっすらと灰色が出てくるというのは、ある意味では黒塗り剥げの真鍮のぞきよりも何かしら凄みがあって、感嘆するのであった。  それを失くしたんだという。  え? どこで失くしたの? と訊くと、それがわかってれば失くさないというのはまあ真実で、その日の行状からして飲み屋かタクシーだという。飲み屋なら高梨さんの場合はだいたい行きつけの店があり、その筋では有名な人であるから、M6を忘れてきてもまず失くなるということはないだろう。  ということは、やはりタクシーか。  タクシーか。うわァ、ぼくがその次の客で乗りたかったと思う。  もちろん届けますよ。拾った物は届ける。だけどこの際高梨さんには新品のM6を買い直してもらって、その使い古したM6はぼくが譲り受けたい。十何年か使い込んで調子は良いだろうし、貫禄は充分。  そこまで長い間使い込んだということは、その十何年間か失くさずに来たということである。現地での撮影はもちろん、帰りに何度も飲み屋に行っただろうし、タクシーには何度も乗っただろうし、路上で居眠りだってしたかもしれない。そうやって長い年月、ライカM6の表面はあちこちでこすれたり、ちょっとぶつかったりしながら、それでも失くさずにきたのだ。それがとうとう……。  老人力のお陰だ。無理もないな。もう還暦を過ぎて、なおも前進しているのだ。記憶はだいぶ吹き飛ばされて、視力もだいぶ吹き飛ばされて、足腰だって吹き飛ばされて、睡眠時間も吹き飛ばされて早朝に目が覚めるし、だからライカM6だって吹き飛ばされていくのだ。しかし惜しいな。  プロにとってライカM6といえば、武士にとっての大小である。常に腰に差して片時も放さないもの。その武士がタクシーの中に大小を忘れてきたのだ。  かなりである。いや、かなりの老人力がついた証拠であろう。 「おぬし、腕を上げたな」  そういわれれば悪い気はしないが、しかしそれに比べたら東京ドームのチケット二枚なんて、まだまだちょこざいな小僧である。  ぼくはライカM6をタクシーの中に忘れることができるだろうか。いやM6は持っていないが、M3なら持っている。あとM2とM4。それからCL。バルナックタイプではライカ㈽f。  自慢している場合じゃないけど、どれか一つぐらいタクシーに忘れてみろ、といわれても、それは難しい。 「あなたも立派な老人でしょう。老人力がついたついたといって喜んでいる。それならライカの一台ぐらいタクシーに忘れるはずだ」  という投書が来たらどうしよう。これは難しい。もちろん見栄で忘れたフリをすることはできる。でもやっぱり惜しいな。  ちょっと話題を変えましょう。  ライカじゃないけどティアラではどうだろうか。フジフイルムで出しているコンパクトカメラ。銀色アルミボディで、じつにスリムなデザインでまとまっていて、28ミリ。  路上観察学会でベトナムへ行ったとき、ぼくはこれをホケンカメラとして持って行った。武士の大小でいうと小の方。大刀が刃こぼれしてダメになったとき、いざ脇差しの小刀を抜いて立ち向かう。  このベトナムのときのぼくの大刀はたしかキヤノンのRTに28—80のズームだったと思うが、脇差しの小刀としてティアラを持って行ったのだった。こういうのを、メインのカメラが不慮の事態におちいったときの保険としてのカメラというわけで、昔の武士が大刀のほかに小刀も持ち歩いたというのは、武士も保険に入っていたわけである。  そのホケンカメラのティアラを、ベトナム最後の日に、レストランかどこかに忘れてきてしまったのである。老人力。  気がついたときは悔しかった。でも長い間苦労したベトナム人民の中の一人が、それを有意義に使って喜んでいるのだろうと思い直した。といっても、やはりライカM6には敵わないか。  じゃあ現金ではどうだろう。いまを去ることもうだいぶ前、マンガ家の安部慎一、鈴木翁二といっしょに酒を飲んだのだ。阿佐ヶ谷。  そのころぼくは阿佐ヶ谷に住んでいて、安部慎一も阿佐ヶ谷、青林堂の長井さんも阿佐ヶ谷、M田君も阿佐ヶ谷だった。もう二十年以上、四半世紀も前のことか。  で、何故だか安部慎一、鈴木翁二と酒を飲んでいて、あとK子嬢、あと最初のころはM田君もいたんじゃないかと思う。何だか楽しくなっちゃって、気がついたら明くる朝、安部慎一の部屋の畳の上だった。鈴木翁二もいた。そこまでの経過はぜんぜん覚えていない。ぼくにはあまりないが、まあ酒飲みにはよくあることだ。  で、後で聞いたところによると、ぼくは何だかご機嫌になって、ポケットから金を出してはばら撒きながら夜道を歩いていたという。もちろん伝聞なので定かではないのだけど、ポケットの中の何かを探していたらしく、金をつまみ出しては、 「何だ金か」  ぽい。またつまみ出しては、 「何だ二百円か」  ぽい。と捨てながら歩いていたというんだから、ぼくもなかなかやるじゃないか。  それはたしかその後ろを拾い歩きながら行ったというK子嬢経由で聞いたんだと思ったが、金額の大小に拘わらず、現金を捨てるとなると指先が多少ひるむものである。もしくはそのカバーリングで、指先がちょっと大げさな振舞いをしてしまったりもする。それがしかし観察者によると、ぼくの手は本当にゴミのように、ひるむことなくお金を捨てていたという。  そういわれてみると、何となく覚えているのだ。いい気持で夜道を歩きながら、ポケットから出したものがちょっと意に反していて、何だかうるさくて捨てていた感覚を。  でも定かではない。まして伝聞である。証拠が残っているわけではないし。  でも、現金を捨てながら夜道を歩くのは、夜のタクシーにライカM6を忘れてくるのと太刀打ちできるのではないだろうか。老人力対決。  いや、別に対決なんてしてもしょうがないけど、ぼくも一度はライカM6を買って、それをいつかタクシーに忘れてみたい。そういう功名心だけは持っている。 [#改ページ] [#1字下げ]年に一度の健康診断[#「年に一度の健康診断」はゴシック体]  人間、健康第一である。  健康とは何か。  病気をしないことである。  じゃあ病気をしないにはどうすればいいのか。  キソク正しいマジメな生活。  この辺からちょっと難しくなるわけで、キソク正しくマジメに生活していても、ガンになったりエイズになったり、そこまでいかなくても風邪をうつされてしまったりする。  だから病気をしないようにといってもカンペキにはいかないわけで、まあ「できるだけ」病気をしないように、気をつける、前向きに善処する、というぐらいのことになり、まあぼちぼち、人間ちょぼちょぼである。  だからときどき健康診断が必要である。若いころはやはりパワーがあるから、少々病気になってもどーんと体力で盛り返せる。初回に二、三点取られても逆転する自信があったりする。でも回を重ねて七回とか八回にがっと二、三点取られると、ちょっとぐらつく。もうこの試合ダメなんじゃないか。  そんなわけで人生も中年を過ぎると健康診断が必要になる。  いや必要ないという人もいて、医者は嫌いだというので、ちょっと体調がおかしいと思っても、無視して、医者には頼らないといって、自然の力だけでどーんと生きてぱっと死ぬ人がいる。ちょっと手を打てばもっと生きられたのに、まあしかし人間みないつかは死ぬんだから、それはそれでいいという説もある。  ぼくの場合、医学技術というものを知った以上それを無視はできず、怪我をして血が出たらやはりメンソレを塗ったりする。風邪を引きそうだと思ったらカッコントウを飲んだりする。医者や薬にばかり頼りたくはないけど、あえてそれを避けるというのはただのアンチ巨人みたいで、だからほどほどには頼る。  ほどほどである。てきとう。そんなところで強い主張をしたり、命を賭けたりはしたくない。賭け金はそんなにないんだから、もっと自分が「ここ」と思うところにびしっと張りたい。  そんなわけで、また今年(一九九八年)も健康診断の季節がやってきた。毎年夏に、仲間といっしょに健康診断に行く。もうそういう歳なのだ。もうというより、この行事は既に十年くらい前からはじまっている。  仲間というのは路上観察仲間の藤森照信、松田哲夫、ぼく、の各氏。それに今年から南伸坊氏も加わる。みんな団塊で、ぼくだけ一世代上。老人力では優位に立っている。要するにボケで一歩先を行く。  ぼくらが毎年診てもらうのはK病院の庭瀬康二先生。この先生は良くいってスピーディ、悪くいってせっかち。もったいぶったようなことは何もしない。実質本位の極致。  ふつう健康診断というと丸一日かかったり、おごそかなものでは泊りがけで二日かかったりする。ぼくもはじめはそういうので一度やったが、どうも何だか大げさすぎる感じがしていた。  庭瀬先生は半日足らずでやってくれる。それも松竹梅とあるうちの梅というか、もっと下のツツジとかタンポポぐらいの感じでやってくれる。  だからレントゲンにしても一人ずつ厳粛にというよりも、時間も詰め込んでくれるので、ぼくは裸で検査衣をはおって待ちながら、先行の藤森さんの胃の中を見てしまった。胃の中に中華があるではないか。  本当はその日の昼食は食べてはいけないのである。ふつうは朝食もとらないようにいわれて、おごそかなところでは前日の夜も控えるようにとかいわれる。だから朝食は本当に食べてもいいのかと聞くと、庭瀬先生は、 「ぜんぜん」  という。でもお昼はさすがにいけない。検査が二時なんだから。  その日藤森さんも自分に言い聞かせてはいたんだけど、お昼がきて、ついレストランへ行ったそうだ。中華ランチを半分くらい食べたところで、ハッと気づいた。 (いかん……)  でももう半分胃に入れている。もうこうなったら意味がないと、全部食べた。  病院に来てそれを報告すると、庭瀬先生もさすがに苦笑しながら、でも、 「大丈夫、やっちゃいましょう、わかるわかる」  となるところがツツジというか、タンポポというか。いや、そこは主治医の有難いところで、毎年診ているからその人の体質はもうわかっている。レントゲンも毎年診ているから、悪くなるとすればこの方面、という急所さえ押さえられればいいのだろう。 (画像省略)  で、ぼくが服を脱いで次の順番でモニター室で待っていると、藤森さんのお腹がレントゲンで映っているのだ。胃の中で中華ランチが、いままさに消化されようとして上を下への大騒ぎをしている。ぼくは前にもいちど同じ状態で藤森さんのお腹の中を見ている。でもその時はちゃんと正しくお昼を抜いて、何もない清く正しい胃袋だった。それが今回は、真っ昼間からあられもない状態というか、何だか見てはいけない濡れ場を見ているみたいで、参った。  参ったというのはその胃袋の図太さである。ぼくの胃袋より明らかに大きく、力強い。ぼくは二十二歳で十二指腸|潰瘍《かいよう》の手術をしている。そのとき胃袋も三分の二切り取られているので、当然ながらハンディはある。だから路上の会合で物を食べるとき、藤森さんはぼくの三倍の量を三倍の速度で食べることを認知している。悔しいと思いながらも、その実体というか、持物をレントゲンで見て比較したら、参った、というほかはないのだった。大きさもさることながら、その活動がパワフル。  ぼくはハンディはあるけど、食べるのは好きだ。欲望だけは持っている。要するに食いしん坊。だから時間をかければ相当食べられる。一発勝負では絶対に負けるけれど、たとえば懐石料理みたいに小粒でちょこちょこ出てくる食べ方で三時間勝負でやったら、藤森さんに勝つ自信まではないけど対等ぐらいには渡り合える。四時間勝負なら勝つかもしれない。  まあそんなことはどうでもいいが、しかしあられもない眺めであった。パンツの中を見たというより、そのさらに中の奥の方まで見てしまったわけで、そういう真実のかいま見える健康診断なのである。  胃袋といえば、第一回目の健康診断が忘れられない。まずみんなで庭瀬先生のところに行っていろいろ指示を仰いで、それから胸のレントゲン、お腹のレントゲン、CTスキャン、血圧、心電図、とかいろいろやってまた庭瀬先生のところに戻る。そうするともうレントゲン写真が上がってきている。それを一枚ずつライトボックスの前に並べていきながら、見るのは一枚について一秒か二秒くらいのもので、 「大丈夫……。よし……。キレイだね……。よし……。大丈夫……」  という具合にパパッと終ってしまう。素人としては、本当に見てるのかな、本当に大丈夫なのかな、と思ってしまう。でもやはりプロだから、それも付加価値なんて無視する実質のツツジ、タンポポのプロだから、ぼくたちはもう全面的に信頼している。  医者というのは信頼だとつくづく思う。その人が言うならウンコだって食べる、という信頼があってはじめて名医である。データだけならコンピューターでいいのだ。でも人間(患者)というのは常に揺れ動いている。その揺れ動きの流れを見ながら策を立てる、というのはコンピューターにはできない。コンピューターには直感がないから。  たとえば嵐山光三郎さんもこの庭瀬先生を主治医としている。十年ほど前、その嵐山さんが旅先で血を吐いた。胃腸問題である。現地入院。経過はかんばしくない。嵐山さんは主治医である庭瀬先生に電話した。庭瀬先生はその経過をふむふむと聞いてから、その処置はよくないという。とにかくすぐ退院して東京に帰って来いと言った。で、帰ってきた嵐山さんを、庭瀬先生はすぐ焼肉屋へ連れて行ったという。  焼肉屋ですよ。そこで患者にがんがん肉を食わせたという。  嵐山さんはそこから治った。凄いなあと思う。とにかく肉を食わせて血を作る、と同時に胃を元気づける。まあ荒療治みたいだけど、でもぼくにはそれが身に染みてわかる。気分を前向きにするか後ろ向きにするか、それが胃にはいちばん重要なのだ。ぼく自身お腹のことでは体験を積んだプロだから、そこからどーんと逆転劇のはじまるのがよくわかる。コンピューターにはそれができない。仮にコンピューターと焼肉屋に行ったとしても、コンピューターじゃあね。  とにかく腹は精神神経に直結している。ほとんど精神直属の器官である。  で、ぼくのその第一回目の健康診断のときだった。庭瀬先生ははじめて見るぼくの胃袋のレントゲン写真に、 「ほう、手術したの……」  と言っている。 「ええ、十二指腸潰瘍で」 「いつごろですか」 「二十代のはじめだから、もう三十年以上前ですね」 「うーん……」  庭瀬先生は珍しそうに見ている。 「名古屋の、鶴舞公園のそばの、横山胃腸病院」 「ああ、あそこね、名古屋じゃ有名だ」  庭瀬先生も名古屋なのだ。で、そのレントゲン写真を見ながら、 「ちょっと、ちょっと……」  と看護婦さんを呼んでいる。 「ほら、これ見て。いまどきこういう継ぎ方しないよね」  ぼくのお腹は胃袋の幽門の前後をばさっと切って、残った十二指腸と胃袋を継いでいるはずだけど、そのやり方がどうも古いらしい。 「どういうふうなんですか」 「いや、ここを切ってこう持ってきてるんだけど、なるほどねえ……」  何だか発掘された古代人の道具でも見るみたいに、看護婦さんと二人、やけに珍しがって見ている。 「これでしかしやっているんだから、ふーん、たぶん体内で情報が変ってるんだろうね」  つまりふつうに考えたらやっていけないようなところを、内臓のあちこちの役割分担を変えることで何とかしのいでいるということか。 「ふーん」  とまた呆れたように感心していた。とにかく相当時代遅れの産物らしい。ぼくは自分の内臓が恥しくなった。でもいいんだ、ぼくにはこれしかないんだから。カメラだって中古カメラを使ってるんだし。  レントゲンはガンの見張りが主目的なようで、あと成人病のほとんどは血液でわかるらしい。で、その日は血液採取のあと雑談。この雑談にまた一時間ぐらい費して、これが楽しみなのだ。雑談治療。ソ連崩壊の年なんて、これからどうなる、来年また来たときにキューバと北朝鮮は存続しているか。賭けるか。ぼくは存続の方に賭けて、結果は三対一で勝った。  余談であったが、そうやって診断の日が終り、何日かすると庭瀬先生から血液検査の報告が来る。ハガキにペン先で突ついたような文字が並び、これが絶対に読めないのだ。いわゆる悪筆というものだけど、しかし自分の健康に関することだから、こちらは必死に読む。そのうち一文字二文字わかる字があり、それを飛び飛びに繋いで、何とか六割ぐらいはわかる。そうやって、読むというより全体の気配から、悪い報告ではないらしいと察する。悪ければ電話がくるだろうし、まあいっか。という感じで、そんなことはもう無視するほかはなくなってくる。そうやってアバウトな気分をもつことで、じつは病気を離れていられるわけで、考えたらこれも老人力鍛錬の場となっているのだ。 [#改ページ] [#1字下げ]宵越しの情報はもたない[#「宵越しの情報はもたない」はゴシック体] [#ここから2字下げ] 「老人」と「力」、対照的な両者を結びつけてマイナスをプラスに転換した発想に、目が覚める思いをした人も多いと思うんですが、赤瀬川さんが提唱している老人力が、今年はひそかなブームになりそうですね。[#「「老人」と「力」、対照的な両者を結びつけてマイナスをプラスに転換した発想に、目が覚める思いをした人も多いと思うんですが、赤瀬川さんが提唱している老人力が、今年はひそかなブームになりそうですね。」はゴシック体] [#ここで字下げ終わり]  これが意外に受けてるんですよ、いままでだったら、「忘れっぽくなった、歳とったな」なんて言ってたようなことも、「老人力がついたんだよ」って言うと、「ああ、そうなんだ」って膝を叩く感じがあるみたい。若い人も含めてね。いままでにもみんながそれとなく感じていて、それが表面張力ぎりぎりに膨れてプッとあふれた、そんな感じがするんです。  ちょっと理屈で考えてみるとね、いまの時代そのものが老人化してきているんじゃないですか。たとえば、僕の青年時代といえば六〇年安保で、時代もまだ若気のいたりっていうか、あまりスレてなかったんです。こぶしを振り上げて「それいけーっ!」って勢いで、すべて力で壊せるような気分があった。それが、七〇年代の暗い時代を通り抜けるうちに、やっぱりただ力じゃないな、という感じになってくる。その挫折の象徴が連合赤軍だったりしたんだけど、それからはむしろ世の中の方が柔軟というか、のれんに腕押しみたいな感じになってきて、僕も中年になったし、時代も中年にさしかかってきたんですね。  そうなると、八〇年代はもう初老で、だから、いまの若い人というのは、生まれた途端に初老なんですよ。もちろん肉体的には若いにしても、妙にわけ知りというか、先が見えてしまった感じがある。彼らは生まれながらに、わけ知り老人として人生をスタートしているんです。それだけに、老人力というものが、冗談じゃなく身に染みて感じられるんじゃないですか、若い人にとっても。 [#ここから2字下げ] 老人力を発見したのは、藤森照信さんと南伸坊さんだったそうですね。[#「老人力を発見したのは、藤森照信さんと南伸坊さんだったそうですね。」はゴシック体] [#ここで字下げ終わり]  ええ、僕は彼らの発見物なんですよ。二人とも路上観察の仲間なんだけど、僕は仲間うちでも一人だけ歳が一世代上だったし、ぼんやりしていたこともあって、もともと「ボケ老人」と言われていたんです。「長老」とも言われてるけど、その実、「長老とは名ばかりのボケ老人」ってね(笑)。  それもしかし十年もたってくると、連中も歳をとって、他人事じゃない感じになってくる。それで路上の合宿の夜の会話でね、二人の間で、もっといい言葉はないだろうかって話になった。で、老人力って言葉が出て、それを明くる日の朝飯のときに、「これからは、老人力ということにしよう」と発表したら、みんなげらげら大喝采でね、「老人力」はそんなところから始まったんです。 [#ここから2字下げ] 老人力とはどんな力なのか、簡単にご説明願えますか?[#「老人力とはどんな力なのか、簡単にご説明願えますか?」はゴシック体] [#ここで字下げ終わり]  まずボケですね。ボケて名前を忘れたり、約束を忘れたりする。でも、忘れることは忘れてるけど、それで頭はかえって開かれてくるってことも、あるんです。なんていうか、もう警戒心がなくなってくるんですよ。年をとると頭のガードが緩んで、もういいやって感じになってくる。 (画像省略)  すると、むしろ吸収がよくなったり、逆に活性化するんですね。新しいものが入りやすくなる。僕なんかはもともとが臆病なたちだから、よけいそのことを強く感じるのかもしれないんだけど。  老人になって衰えるのは頭だけじゃない、足腰が弱ったりもするんだけど、その点については、僕らはけっこう強いんですね、いつも歩いてるから。ただ、僕らが老人力と呼ぶのは、そうした物理的なものだけじゃなく、やっぱり感覚に関してなんです。忘れることのしょうがなさと言うか、面白さと言うか。 [#ここから2字下げ] 吸収がよくなるとおっしゃったのは、ヘンなこだわりがなくなるってことですか?[#「吸収がよくなるとおっしゃったのは、ヘンなこだわりがなくなるってことですか?」はゴシック体] [#ここで字下げ終わり]  そうですね。感覚的にはむしろ融通無碍というか、自由になっていくところがある。ヘンな遠慮がなくなって、もう見栄も体裁もいいやって感じになる。若い頃って、そういうものがいろいろ気になるものでしょう、まして結婚前だったりすると。 [#ここから2字下げ] 結婚すると、なくなりすぎちゃう人もいますけど。[#「結婚すると、なくなりすぎちゃう人もいますけど。」はゴシック体] [#ここで字下げ終わり]  うーん、その辺はちょっとね(笑)。遠慮や体裁もある程度は必要だったりもするんだけど、でもやはりいらないものがなくなったぶん、出入りがよくなるってことはあると思うんです。  だから、もともと感覚勝負の人というのは、老人力によって、さらに感覚が活性化されたりするんじゃないかな。普通の会社勤めの場合はどうなんだろう。組織人間になっているからねえ。その組織人間の場合はどうしても自分を殺して、どこか好き嫌いの感覚を殺して生きてる。それに順応しすぎた人だと、現役引退のとたんに辻褄が合わなくなってあたふたってことになるのかもしれないね。組織で成功した人ほどそうだったりして。百八十度ガラッと転換しなきゃならなくなるわけだから。そこへいくと、僕なんかは地続きだから、根本的な変化はあんまり感じなくてすんでる。  でも、老人力で踏みこむ世界というのは、次から次、死ぬまで未知の局面が現われてくるということでもあって、けっこう新鮮な思いができるんじゃないかって気がする。臨死体験じゃないけど、ヘタすれば死んでからも楽しいんじゃないか、なんて考えたりしてね。老人力の極大は、死んじゃうことだから、老人力を百パーセント発揮して、この世のことはすべてを忘れてしまうという(笑)。 [#ここから2字下げ] なんだかボケないとソンかも、なんて思ったりして。老人力の凡才はつまんなそうですね。[#「なんだかボケないとソンかも、なんて思ったりして。老人力の凡才はつまんなそうですね。」はゴシック体] [#ここで字下げ終わり]  老人力にも世代による違いがあるみたいです。若年寄みたいな若者が多い世代って、老人力になじみやすい世代なんじゃないかとか。人によっても違いは大きくて、若いときはピカピカしてたのに、あるときからドッと老けこむ人もいるしね。頭の働きにしても、逆に歳をとるにつれだんだんよくなるって人もいる。  同窓会なんかで何十年かぶりに会ったりすると、みんなずいぶん変わってるでしょう。小学校出て二十年ぶりというと三十代になっていて、なんでもなかった女の子がすごい美人になってたり、当時は憧れのマドンナなんて言われてた人が、結婚して冴えないおばさんになってたり。そんなふうに、一人の人生の中でも、能力や容貌の魅力を発揮していちばん冴えているときと、そうでもなくなるときと波がある。跳躍力とか持久力なんかの体力にしてもね。  職業によっても違いがあって、数学者なんかとんでもない原理を発見したりするのは若いときだけなんだって。で、あとはその残りで生きていくらしいけど、そこへいくと画家なんかは、ピカソを見ても、ズルズルいくつまででもいける世界でしょう。 [#ここから2字下げ] 赤瀬川さんご自身は、そのあたり、どんな感じなんですか?[#「赤瀬川さんご自身は、そのあたり、どんな感じなんですか?」はゴシック体] [#ここで字下げ終わり]  僕の若い頃は、人見知りと引っこみ思案と臆病と、そういうものが全部揃ってた。あのころパーティとかあるとツイストとかマンボの時代ですよ、あれが嫌でね、たまに足の悪い人なんかがいると、踊らなくてすんで、悠然としていられるのがカッコいいなあ、なんてうらやましがってた。  そういえば、老人力についてえのきどいちろうさんと話したときも、似たようなこと言ってたなあ。若いことが、自分はどうも苦手だったって。つまり、異性を意識しすぎることが苦手だった。僕もその気持はよくわかって、異性だけじゃなく、人前で踊ったり歌ったりがどうにもいやでね、いまでもカラオケってだめなんです。何であんなことをするのか。 [#ここから2字下げ] 自意識過剰ですからね、若いときって。[#「自意識過剰ですからね、若いときって。」はゴシック体] [#ここで字下げ終わり]  力むばっかりでね。とくに僕なんかは神経質で完璧主義、まあ若いころはみんなそうかもしれないけどよけいに苦労が多かった。でも、歳をとると完璧主義も単なる癖であって、どのみち完璧になんかいかないものだってこともわかってくる。挫折や失敗も経験するしね。そうなると、とにかく楽しむことが一番、嫌なものはとりあえず放っておけばいいんだ、どうせ全部はできないんだからって感じになって、でも、これもやっぱり老人力なんですね。  だから、細かいことが気になって仕方ない性格も、自分の癖なんだとあきらめて、いまはあえて直そうとも思わないし、そんな自分を自分でも半分バカにしながら、どこかで楽しんでいたりもする。犬や猫だって飼ってみれば癖はそれぞれだし、人間もつき合ってみると、それぞれけっこうヘンな癖を持っていて、自分と同じようなことやってる人がいると、ああそうなんだって、よくわかるしね。  自意識っていうのは、ないと困るものではあるけれど、自意識過剰の空回りは健康によくないですね。なにごとも過剰はからだに悪い。でも、歳をとるとそれも鈍ってきて、オレってまたこんなことやってるぞ、みたいに自分を客観的に見る余裕もできてくる。それが日常的になってくる。  藤森さんに言われたことがあるんですよ。僕の場合、どこかで人間ちょぼちょぼ、みたいに思ったんじゃないかって。なるほどなって思ったけど、そこのところって、たぶん誰でも一度は通過するんじゃないかと。 [#ここから2字下げ] 赤瀬川さんって、若い頃はけっこう過激でしたもんね、芸術のカゲキ派。[#「赤瀬川さんって、若い頃はけっこう過激でしたもんね、芸術のカゲキ派。」はゴシック体] [#ここで字下げ終わり]  そうですね、過激こそが素晴しいと信じてた。それはある点ではいまも変わらないんだけど、でもそのある点の、点の位置が、いまはずいぶんズレてますね。まあだから、「ちょぼちょぼ」についてもわかってくるんですよ。自分の限界がわかってくる。  でも、面白いことに、限界がわかってからのほうが、かえって自分のやりたいことができるようになったりするんです。これはもうずいぶん前、中年の頃に思ったんだけど、誰でも自分のこと、それなりに天才だと思ってますね、あれもできる、これもできるはずだって。ところが、現実は厳しい上に、周りを見渡せば、自分よりすごいこと、どんどんやってるやつがいる。ああ、オレはこの程度のものだったんだって、がっかりする時期があるんですね。  でも、だからって、意気消沈してるわけにはいかないから、何かできそうな小さなものを一つ見つけてやっていく。すると、その中って、意外に広いんです。外からは狭く見えても、奥は深くて広がっていたりする。  そのことに、やっぱり若いと気がつかないんですね。自分が万能だと思ってるうちは、足が地につかない。それが、自分の「ちょぼちょぼ」を知って、逆に無駄な力が抜けるというか。限られた部分に集中力が発揮できると、その細かいところから逆に、面白さがどんどん広がっていったりするんです。  だから、いまの僕は、あるものに興味を持つと、虫みたいに徹底的に食い潰しているみたい。小説にしてもトマソンにしてもステレオ写真にしてもね。で、それが終るとまたよそに行って、美味しいうちに食べ尽す。人間って、やっぱりちゃんと燃えないとダメなんですよ、具体的ななにかに対して燃え上がらないと。異性も同じで、まだ特定の対象がない若い頃というのは、漠然と異性全体に対して燃え上がってる。極端な話、人間四十五億いるうち異性は二十何億、それが全部気になるんだからどうすりゃいいんだ、なんて考えてみたりして。漠然として具体性がないんですね。でも実際には一人に対して燃え上がるわけで、それはどんなものでも同じなんです。  人間というのは、燃え上がってこそなにかができるし、なしとげることもできる。路上観察だって、燃え上がってからが、もう面白いんですよ。で、思いもかけないことができたりもする。冗談が全部現実になっていくって、あのころはみんなで驚いていた。路上観察でもあれだけ面白いんだから、もっと大きい目標、たとえばロシア革命なんてやった連中は、さぞ面白かっただろうと思う。ただ、ああいうものは、あとが大変ですけどね(笑)。 [#ここから2字下げ] 若い人たちが「二十過ぎたら終りよね」みたいに先の見えた話をする、そうした社会の閉塞に、老人力はフッと風を吹きこむことになるかもしれない。[#「若い人たちが「二十過ぎたら終りよね」みたいに先の見えた話をする、そうした社会の閉塞に、老人力はフッと風を吹きこむことになるかもしれない。」はゴシック体] [#ここで字下げ終わり]  若い人たちは情報社会にひたってるんですね。情報社会って、みんなケチになるんです。情報を全部抱えこもうとするから、ぱっと捨てられなくなる。僕ももとはケチなほうなんだけど、老人力って、捨てていく気持よさを気づかせてくれるんですよ。ボンボン忘れていくことの面白さ。  情報的にスリムになると、自分が見えてくるというか、もとにある自分が剥き出しになってくる。反対に情報で身の回りを固めてると、情報が自分を支えてくれる代りに、生《なま》じゃなくなってくるというか、自分が何だか干からびてくるんですね。だから、いまの人たちって、コツコツ情報を溜めこんで、けっこう苦しそうだったりするでしょう。  だから、使い捨て文化とは違う意味で、情報はガンガン捨てていったほうがいいんです。情報の大盤振舞いっていうか、逆か、情報はドブに捨てる、宵越しの情報は持たねえ、みたいな江戸っ子老人力。いま思いついたんだけど、これいいねえ、江戸っ子老人力って(笑)。 [#ここから2字下げ] たとえ情報だって、溜めこむにはエネルギーもいるし、頭の中に倉庫も必要になる。[#「たとえ情報だって、溜めこむにはエネルギーもいるし、頭の中に倉庫も必要になる。」はゴシック体] [#ここで字下げ終わり]  だから、みんな管理職になってるんですよ、情報の管理職。でも管理職ってつまんないんですね。たとえばあるカメラ会社で、商品開発でたくさんの大ヒットを飛ばした現場の人が、偉くなるとどうしても管理職に持ち上げられる。すると、その会社はパタッとヒットが出なくなる。その優秀な人が現場からいなくなったんだから。やっぱり、現場を持たなきゃつまんないんです。現場の生《なま》が一番贅沢。管理職なんて、たしかに立場としては上だろうけど、見方を変えれば仕分けロボットみたいなもんだから。 [#ここから2字下げ] 老人力が注目され始めている背景には、そういうものへの反省があるんでしょうね。いまおっしゃったようなことが説得力を持つのも。[#「老人力が注目され始めている背景には、そういうものへの反省があるんでしょうね。いまおっしゃったようなことが説得力を持つのも。」はゴシック体] [#ここで字下げ終わり]  言われればわかるんだけど、でも、情報がないと不安だし、捨てるのももったいないしで、みんな、いざとなると情報が捨てられない。テレビなんて情報のゴミ箱ですよね。ゴミ箱は失礼か。いや、ゴミの中にもたまに掘り出し物があるってことでいってるんですが(笑)。僕なんかも、むかしはボーッと見ているテレビ好きだったけど、ほんとに見なくなりましたね。要するにつまんないんだもの。それよりもっと面白いもの、自分の生《なま》な世界が広がってきたから。まあ、単純に仕事が忙しくなってきたってことだけど、いまはせいぜいスポーツニュースと野球中継ぐらいで、あとは事件があったときぐらいしか見ない。 (画像省略)  ただ、そういうふうに切り替わるときには、それなりに葛藤がありましたけどね。あれを見ないといけないんじゃないか、これは見とかないといけないんじゃないかって。でも、なし崩しに見ない習慣がつくうちに、見ないと損するって気持もどこかへいってしまった。その感じ、禁煙と似てますね。いざやめてみると、タバコをやめるくらいで、なんであんなにイライラしてたんだろうって、アホらしいくらい。 [#ここから2字下げ] 若い人も、一度テレビも雑誌も捨てて、現場に出ればいいのかもしれない。[#「若い人も、一度テレビも雑誌も捨てて、現場に出ればいいのかもしれない。」はゴシック体] [#ここで字下げ終わり]  まあしかし人それぞれだから。昔は職業学校がいまより身近だったから、みんな普通に工業高校行ったり商業高校行ったりしてましたね。それが、いつのまにか全員大学に行くコースになっちゃった。ムリなんですよ。勉強に向かない人が大学に行くんだから。みんな、もっと世の中の現場で働けばいいんです。仕事の現場って、とにかく面白いんだから。 [#ここから2字下げ] そのことによって、情報のモザイクじゃなく、自分のからだをきちんと通った考え方もできるようになるかもしれない。[#「そのことによって、情報のモザイクじゃなく、自分のからだをきちんと通った考え方もできるようになるかもしれない。」はゴシック体] [#ここで字下げ終わり]  僕も働いてる若者をそうは知らないけど、家を建ててたとき、現場の若いやつとチラッとだけど話をすると、いいんですねえ、なんだか感じが。ああいう人たちって、いまは目立たない存在になってるけど、でも、いるところにはちゃんといるんだと思う。  このさい僕も自衛隊に体験入隊してみようかなんて、冗談だけど、でも、いまの日本には徴兵制のないのが欠陥ですね、徴兵というといろいろうるさいから徴労でもいい。とにかくムリヤリ労働を体験する場としての。疑似体験でも、肉体の体験にはなるんだから。中国には文化大革命のとき、下放というシステムがあったでしょう。あれの思想は嫌だけど、でも若者を地方の現場に送りこんで、一時期労働させる。強制的に。強制は問題あるか。でもムリヤリということには意味がありますね。  十年くらい前かな、日食を見に小笠原諸島まで行ったことがあるんです。船に往復五日間ぐらい乗ったんだけど、ものすごいシケに遭ったときは、どうなるかって感じだった。で、そういう場面になると、船長って、ほんとに頼もしく見えてくるんですよ。嵐なんてムリヤリくるんだから、さあどうしようなんて、みんなでじっくり会議なんてしてられないでしょう。そうなると、一番の経験者であり人格者である船長がずばっと命令することになる。  船の中って、命令系統が一本なんです。船長が絶対的存在。大自然の暴力に立ち向かうには、民主主義じゃ間に合わないのね。もちろん民主主義は大事だろうけど、危険な大自然と渡り合うには、話し合いじゃダメなんだって、しみじみ感じさせられた。そういうことでいくと、昔は戦争があったからね。これも台風と一緒で、ある程度計算していても、とんでもない方向からとんでもない力がきたりする。  去年(一九九七年)いっしょに僕の家を作ってくれたとき、藤森さんも言ってたのね、結局は現場が一番面白いんだって。藤森さんは、まさに現場の天才なんだけど、彼は「現場の面白さを追求すれば、最後に行きつくのは戦争だろう」って言うんです。戦場というのは計算外のことが次々に出てくる場所だから、計算通りのことしかできなかったら、自分の方がすとんと首を切られて死ぬわけで。現場でとっさの判断を一番発揮できる人間が将軍になっていくわけで、だから、戦争はやっちゃ困るけど、苛酷な体験というのは、どこかで必要だったりするんじゃないですか。のるかそるかの場面に立たされることで、鍛えられていくものがある。宵越しの情報なんか持ってられないって気持がないとね。 [#ここから2字下げ] 中古ライカの老人力について書かれていましたが、アンティークを集めたり、わざわざセピアのフィルムで写真を撮ったりするのも、老人力を楽しんでると言えるのかもしれない。[#「中古ライカの老人力について書かれていましたが、アンティークを集めたり、わざわざセピアのフィルムで写真を撮ったりするのも、老人力を楽しんでると言えるのかもしれない。」はゴシック体] [#ここで字下げ終わり]  まあ気分は重なるでしょうね。カメラでも、昔の金属製のものは重くて不便だけど、どこか凛としたカッコよさがある。ほんとに使いこなせるのかなっていうような若い女性が、ライカを持ったりしてるのは、物品としてもカッコいいからなんだと思う。  なんで昔のものに気品があって、いまの人間が惹かれてしまうのか。そのあたりは別のテーマになりそうだけど、そこには老人力も重なってくるんじゃないですかね。じゃあ、老人力は気品があるのかって聞かれたら、強引に、そうだって答える(笑)。 [#ここから2字下げ] 明治生まれは、人間もカッコいいですもんね。[#「明治生まれは、人間もカッコいいですもんね。」はゴシック体] [#ここで字下げ終わり]  やっぱり命張って生きてたからでしょうね。一時期ヤクザ映画に人気があったのも、命張ってる様子がカッコよかったからでしょう。命を投げ出すところから生まれてくる、ある気品のようなもの。計算機に気品って、あんまり考えられないものね(笑)。  僕も貧乏性だけど、計算機もかなり貧乏性ですからね。あっちこっち横目ばかり使って、目つきが悪いようなところがある。キョロキョロして一番いいところを狙ってるような、ちょっと浅ましいっていうのかな、ヘタすると、そういう気分につながりそうな回路が開いてる。昔は品格とか志みたいなものが尊ばれたから、計算で動くなんて軽蔑されることだった。それがいまはとにかくプラス志向だから、計算ずくでもなんでも勝利すればいい、みたいになってるでしょう。でも計算だけが生きて、人間が死んでしまったら元も子もない。だって自分の人生を楽しめるかどうかだからね、計算ではたして豊かに生きられるのかなって。  たとえばブータンって、GNPはものすごく低い、つまり計算上は貧しい国だけど、実際に行くと、なんだかすごく生き生きしてるのね。泥にまみれてても、目はパキッとしてるっていうか、眼力が違う。でも、目がパキッとなんて、計算には出てこないんですね。それに、GNPが低いとはいっても、自給自足の場合は数字には出ないわけで、数字だけを見てると、とんでもない間違いをすることもあるんだなって、思ったんです。 [#ここから2字下げ] これからの日本は、いわば老人力あふれる高齢化社会になるわけですが。[#「これからの日本は、いわば老人力あふれる高齢化社会になるわけですが。」はゴシック体] [#ここで字下げ終わり]  みんないよいよ自分自身の問題ですね。まあ、自分にいらないものは捨てて、スリムになっていく。どんどん忘却力を鍛えて(笑)。で、そこで問題になってくるのは、何を捨てるのか。酒や食べ物の量は自然に落ちてくるとしても、次はもう、それまで溜めこんでいたものを捨てていくしかない。膨大なコレクションだったら、どこかに寄付するとかね。  この間のバーンズコレクションなんて、古典的な、お金持の一番いい形なんでしょうね。若い頃に好きな絵をいっぱい買って、最後は公的な美術館に寄付するというのは、お金持の美風だと思う。本当のお金持と成金との違いがありますね。成金でもそこまでいけば立派だけど、そうなると今度はセンスが問われてきちゃう。「なーんだ、こんなもんもらってもしょうがないよ」って言われてもねえ(笑)。  気品とセンスですねえ。照れ隠しに下品なフリするって、そういう逃げはもうつまんないですね。家を建てたときも、つくづく感じましたね。藤森さんって、気品があるんですよ(笑)。いやセンスというか。そのあたりの詰めがすごいんです。一見そうは見えないけど、実に繊細な人で、僕もその本当の繊細さをずいぶん学びました。  たとえば分厚い木でテーブルを作ろうとしたとき、僕なんか貧乏性だから、その厚みを見せたいって思うのね。でも、藤森さんは、「それじゃ品がない」って言う。テーブルとして、もちろん板の厚さ自体は感触がいいんですよ。価値もあるし。でも、だからって厚みをそのまま見せたら、これ見よがしの泥臭いものになってしまうって。  結局、藤森さんはその厚い天板の四辺を下に斜めに削って、座る人からは厚みが見えないようにした。足もぎりぎり細くして、それがカッコよくてね、本当は分厚いのにスパッと薄く見える。つくづく気品は捨てる潔さから生まれるんだと思いましたよ。それは人間も同じで、お金持でもカッコいい人はお金を超えてるし、貧乏人でも気品のある人は貧乏を超えてますもんね。 [#ここから2字下げ] 日本には、もともとそういうものを尊ぶような精神もある。[#「日本には、もともとそういうものを尊ぶような精神もある。」はゴシック体] [#ここで字下げ終わり]  そうなんです。でも、それはスタイルの問題じゃない。日本の「侘び寂び」も最初はそういうところから生まれたけれど、あとから計算でそこに近寄る人は、どうもなんだか嫌ったらしくなるんですね。またその嫌ったらしさだけ見て早とちりして、日本的なものは嫌だってなったりして。それもまたばかな話で。スタイルじゃなくて、あくまで個人個人の問題なんです。それは、気品も老人力も同じですけどね。 [#改ページ] [#1字下げ]あとがき[#「あとがき」はゴシック体]  老人力ときて、あとがきとなると、何だかもう遺言みたいだけど、そうではない。ふつうにあとがきである。  老人力発見の経緯については本文にある通りだが、そのころ東京新聞から文化欄にエッセイの依頼があり、それではというので老人力についての小文を書いた。これが老人力活字定着の最初であるが、その反響には何かしら輝ける勢いがあり、それではというので月刊誌「ちくま」で老人力の連載がはじまったのである。  老人力というのはなかなかつかみどころのないエネルギー概念で、これまで発見されることなく人類に作用しつづけてきたわけである。その作用が多くの場合、ボケだとかヨイヨイだとかいわれて、むしろ嫌われてきたのは、人類史の悲哀というものだろう。それがやっとこのたび発見されたときには、もう人類の終末が近づいている。  いやあ終末なんてまだまだ、というご意見もあろうが、そういうご意見がどうしても痩せ我慢に聞こえてしまう今日このごろだ。  いや皮肉とかじゃないんだけど、著者の反省点としては、ちょっとした何かをすぐ大真面目に考えてしまう癖があること。大風呂敷を大真面目に広げてしまって、あとで畳むのに苦労してくしゃくしゃのまま仕舞い込んだりする。次に広げるとき大変である。  でも、ライカだって買ったはいいけど大事に仕舞い込んだまま一度も使わない人がいて、それじゃあ何にもならないと思う。大風呂敷だって、タンスの奥に仕舞い込んだまま一度も広げないんじゃしょうがない。ときどき虫干しの振りをしてでもいいから広げて使った方が、ぼくはいいと思う。  文中、箸休めの感じで入れた写真は、路上観察学会で東海道を歩いたときのものである。広重の東海道五十三次で有名な宿場ごとに歩いたわけだが、春と秋で三回合宿して手分けして歩いた。そのときの自分の写真の中から、老人力と響き合うものを選んだ。  もうじき敬老の日、別名老人力の日でもあるのだが、老人力というのもタンスの奥に仕舞い込んだまま出さない人がいる。ライカのように後生大事にというんじゃなくて、反対に恥しいものとして隠し込んでいる。それはいろいろと人ごとに違うもので、その話を聞くのがまた面白い。じつはこの「ちくま」の連載と並行して「一冊の本」で老人力座談会というのをつづけていた。そちらの方も『老人力のふしぎ』(朝日新聞社刊)として本になったので、ご併読下さるとご理解が深まるだろう。 「ちくま」連載の「老人力のあけぼの」は、本書発行後もつづく予定で、その後のいろいろをご報告していく。「ちくま」連載時には編集部の祝部陸大さんにお世話になった。単行本では松田哲夫さん、装幀は南伸坊さん、飯はいつも妻尚子、皆様に感謝致します。   一九九八年七月二十九日 [#地付き]赤瀬川原平 [#改ページ]  ㈪ [#改ページ] [#1字下げ]クリアボタンのある世の中[#「クリアボタンのある世の中」はゴシック体]  すべてを水に流して、という考え方は日本ならではのものだと思う。アフリカの砂漠の国で、何か骨肉の争いがあった後に、 「まあまあ、ここはひとつ、過去のことは水に流して……」  といっても、水がない。流しようがない。水があればまず飲みたいというもので、流すとすれば体内に流すわけで、過去を水に流したとしても体内に溜ってしまう。  シベリアとかアラスカの方でも水に流せないでしょうね。水はあるけど凍っている。水に流そうとしてもどんどんその場にへばりついてしまう。いったん火で暖めて溶かせばとりあえずは流れるけれど、その先ですぐにまた凍りつく。  それから中国の辺りも、水は大量に流れているけど茶色だ。土が混じっている。泥水だといってしまうと悪いけど、泥が含有しております。だから流れることは流れるけれど、ちょっと意味合いが違ってくる。 「まあまあ、ここはひとつ……」  といって水に流すのは、みそぎというか、ゼロというか、無色透明からやり直そうというようなことなんだけど、そうはなりにくそうだ。  人間とか世の中というのはどうせ濁っていくものだが、クリアボタンのあるなしで、ずいぶん違う。うちにはまだパソコンがなくて、電卓ならあるのだけど、あれに「C」のボタンがなかったらどうなるのだろう。すべてを水に流せないコンピューターというのは、その働きも相当粘着したものになるんじゃないか。  月に水が発見されたというニュースには驚いた。空気のない、大気のない月面に水というのは、何だか荒唐無稽で、ロマンチックというか、すぐにイラストなどが頭に浮かぶ。人っ子一人いない、もちろん動物も植物もいないところの広大な湖。一センチくらいの隕石が飛んできて、チャポン、と落ちると、いつまでもいつまでも波紋が広がっていく。  しかし報告によると、月の水は氷の状態であるらしいという。  それはそうだ。宇宙空間というのは大気がないから物凄く寒い。水はすぐ氷結する。そうじゃなくても真空の状態にさらされて、あのちゃぷちゃぷの水がそのままでいられるわけがないだろう。  光学観測からわかったらしいが、地球でいう北極とか南極にあたる極地の巨大クレーターに、巨大氷塊としてあるらしい。  考えたら彗星も、だいたいは水分の氷結した固まりだという。泥の混じった雪だるまのようなものだという。氷の固まりなら、宇宙空間にさらされても存在している。  しかし月の水はどうやってそこに氷結したのだろうか。  まあいろいろ事情はあるのだろう。いずれにしろ原始太陽系というのはガスの渦巻きだったんだから、それがだんだん身を固めて太陽や各惑星になる一方で、水も水でガス一般の中から水としてあらわれてくる。  宇宙の中でも水というのは相当一般的な、どこにでもある物質のようである。ただそれが月のように氷であったり、あるいは蒸気や雲であったり、岩石や有機物の中に隠れていたり、いろいろらしい。地球の水のように常時流動物としてあるというのは、稀なことのようである。  それも泥水にもならず、無色透明の水でいるのは、さらに稀なことのようである。 (画像省略)  吟醸酒のことをいいあらわすのに、ほとんど水のような、といったりするが、逆にいまは透明な水の状態をいいあらわすのに、ほとんど吟醸酒のような、といわなければいけないようなことになってきている。  ぼくも酒が好きでいろんな酒蔵を見学したことがあるが、あれは造るのが大変である。酒米を選んで、一年かけて栽培して、それを半分くらいになるまで搗《つ》いて、それを洗ったり蒸したりいろいろして、そのいろいろをたくさん重ねた結果、透明な酒が生れる。  吟醸酒は淡麗というか、さらさらが特徴で、本当に吟醸の極まったものはほとんど水のようだといわれたりする。透明で、口当りもさらっとしていて、ほとんど水だということが酒の最大の評価になってみると、ちょっと狐につままれる。水と米を使って、あれこれを無数に重ねた末に、結局はほとんど水のようなものが出来るんだとすると、これはほとんど芸術みたいだ。  もちろんそれは表現であって、透明の中にもほろ酔いの要素は含まれていて、さらっとした口当りの奥の方に、ごくごく控え目な、まるで嫌味のない美味《おい》しさが隠れていて、口にしたあと、またもう一口、ということになるのである。  でもそういう控え目な、隠れた、透明な美味しさをいいあらわすとなると、「ほとんど水のような」ということになってしまう。  でもたしかに似ているんだ。水のような吟醸酒を造るのも大変だけど、吟醸酒のような水が造られるのも大変なことである。  前に九州の北の海の沖ノ島へ行った時のこと。この島は大昔から神の島といわれて、宗像大社から派遣された神官が一人だけ住んでいるほかは立入り禁止。昔からこの辺りの海人たちが祈りを捧げた島で、太古からの捧げ物がごろごろしていた。いまはそれが本土の神宝館に収められて、数えたら国宝と重要文化財が十二万点。  とにかく絶海の孤島だけど大変な島で、そこへ小さな漁船で渡り、特別に上げてもらった。神の島なので神官立合いのもと、こちらも裸で海中に身を沈めてミソギをしないといけない。まだ三月のはじめで、海水はきりきりに冷え切っていて、体が凍結しそうだった。それから神官の案内で島の森の奥深くへ行き、島の山の頂上にも登って降りてきたんだけど、海辺近くの岩山の裾のところから水がぽたぽたと垂れている。いわゆる御神水みたいなもので、掌で受けて有難くいただいたが、まるで貴重な吟醸酒を口にするような気持だった。  つまりそれをいいたかったんだが、御神水という概念を抜きにしても、海から雲から雨になって降りそそいだのが、森林と岩山のさまざまな装置を経てきて、完全に透明な、清浄な水となってしたたり落ちているわけで、その島の装置を考えてみたら、もちろん吟醸酒以上だ。  贅沢だなあと思った。それを贅沢と考える人間社会の頭が貧しいわけで、その島の生き物はそれを当り前に口にしている。  自然の中で透明な綺麗な水が出来るのは当り前のことなんだけど、それを自然じゃなく人工的に作ろうとしたら、それは吟醸酒を造るよりも大変なことなんだと思った。  その水はじつに気持よかったですね。御神水なんて人間の考えたことだと思いながらも、本当に御神水のようだった。本当に細かい幾層もの岩の間から、水のような吟醸酒みたいに、さらさらの透明体になってしたたり落ちている。  化学的には単なる水なんだろうけど、その単なるというのが貴重なんでしょうね。人間が関わってくると、何でもいろいろと複雑になる。だから自然が人間社会に変容してくると、水も単なるではなく複雑な水になってくる。それがあるから、単なる水が一気に御神水になるのだった。  でもそういう単なる水が豊富にないと、 「まあここはひとつ、過去は水に流して……」  というふうにはなかなかならない。いまはまだ単なる水よりも高級な吟醸酒が崇《あが》められる時代だから、 「まあここはひとつ、過去は酒に流して……」  となって、それはそれでやぶさかではないが、果して酒で流れるかどうか、いずれまた蒸し返されるような気がする。酒は飲み過ぎると酔っ払ってしまうから。  いまは世の中がコンピューター化している時だから、よけいにクリアボタンの必要性を身にしみて感じるんじゃないだろうか。単なる水、それも豊富にあって流れるほどでなければ、クリアのゼロにはできない。  朝起きてまず水を飲む。体の中の、あるいは気持の中の、もろもろの数が消えてゼロになる。単なるゼロは気持いいですね。 [#改ページ] [#1字下げ]転んでもタダでは起きない力[#「転んでもタダでは起きない力」はゴシック体]  人間の生活というのは毎日毎日、連続的に、休みなくあるわけだから、ときどき転ぶのは人生の常である。転ぶと痛いから、転ばないに越したことはないが、でも一生転ばないことなんて、あり得ない。  であれば、転ぶことをあまり恐れない方がいい。自分から転ぶことはないが、イカンながら転んでしまったときには、転んでもただでは起きない。  昔からよくいわれることだが、ぼくはこれをモットーにしている。別に紙に書いて壁に貼ってあるわけではないが、昔からそうだった。考えてそうなったわけではないけど、転んだままでいるのが悔しい。ただそのまま起きるのが悔しいので、見回して必ず何か拾って起きる。  その拾ったものの数々を、いまもダンボール箱に入れてとってあるかというと、そうではない。これは比喩である。もののたとえ。  子供のころ貧乏だったので、いやおうなくそういう精神が出来上がってしまったのかもしれない。  ぼくはこれまでの人生で何度転んだのだろうか。  貧乏はともかくとして、おねしょ、胃腸の手術、伊勢湾台風、裁判、ばついち、不眠症、ぎっくり腰、ぢ、水虫、人にいえないこと、しもやけ、数え上げたらきりがないが、人生とはそういうものである。  ぼくはおねしょで転んで、ただでは起きずに何を拾ってきたのだろうか。  というより、おねしょとは変なもので、転んだ瞬間がないのである。人はみな、生れたときからおねしょをしている。毎日していて、人類の全員がそうだから、それはとりわけおねしょとはいわれない。ただ人間は成長していくにつれ、夜寝ている間はだんだん尿を排泄しないようになっていく。人類のほぼ全員がそうなっていくんだけど、中になかなかそうならないのがいて、だんだんおねしょといわれるようになってくる。  ふつうは小学生になるころにはおさまる。でもぼくはなかなかそうはならずに、成長とともにだんだんおねしょといわれるようになっていった。  だから転んだ瞬間がないのである。意識が芽生えるとともに、成長とともに、だんだん転んでいることになっていく。はっきりしないままに成長は進み、だんだん、こ[#「こ」に傍点]があらわれ、ろ[#「ろ」に傍点]があらわれ、ん[#「ん」に傍点]があらわれ、で[#「で」に傍点]があらわれ、ころんでいることに気がついていく。ぼくは中学三年までつづいた。  こんな転び方で、ぼくは何を拾って起き上がったのだろうか。それは何ともいえないが、計り知れないものがあると、自分では思っている。こんにち、老人力の伝道師のごとくなっているけど、その起源は、おねしょの蒲団の湿り気からきているかもしれないのである。  そもそも老人力とは、転んでもただでは起きない力のことである。というか、そもそも老人とは、人が間断なくゆっくりと転んでいく状態のことなのである。老人にも、転ぶ瞬間がないのだ。おねしょとは反対だけど、少しずつ現役を離れて、目が霞んだり、物を忘れたり、腰が痛んだり、歯が抜けたりしながら、ゆっくりと、徐々に徐々に転んでいく。転ばないに越したことはないけど、気がつけば少しずつ転んでいるのは、人生の常。例外はない。時期のずれや度合いの違いはあるにしても、人類の全員がゆるゆると、やんわりと、気がつけば転んでいる状態なのだ。  それはわかっている。でも転んでもただでは起きない。そのただでは起きない力が老人力というものではないだろうか。ボケるには違いないけど、そのボケを何とか自分の人生の得点とする。物忘れはたしかだけど、それをたとえばゆとりとして活用する。まあやり方はいろいろだけど、超スローモーションのようにゆっくりと転んでいきながら、その裏側でゆっくりと、ただではなく起き上がっていく。両手いっぱいに拾っているのは、人それぞれ、何かはわからない。  ぼくは貧乏性で、優柔不断である。世間ではよくないといわれる性質で、だからその点でも既に転んでいるのであった。はじめは恥しいからそういう性質を隠していたけど、転んだままではしょうがないので、それをさらけて、世間に提出して、カミングアウトして、むしろ自分の研究対象としてみると、それが俄《にわ》かに知的収入、つまり生き甲斐というものをもたらすのであった。  貧乏だったこともあるが、工夫が大好きである。貧乏のさなかにあっては、工夫を最大限に発揮しなければ生きてはいかれない。というところで、貧乏は最大の、転んでもただでは起きない道場となるのだった。  いまは貧乏がない。だから転んでもただでは起きない道場が世の中に欠乏している。その気のあるものが独学でやるしかないわけで、転んだらそのままという人生が多発する傾向にあるというが、まあ世の中いろいろ。  転んでもただでは起きないせいか、ぼくは廃物利用が大好きである。廃物となった物品が、工夫されて、もととは違うことで使われている様子を見るのは、じつに楽しい。  若いころは鉄屑拾いに熱中した。前衛芸術青年だったのである。キャンバスに油絵具という方法にあきたらず、また金もなかったということもあるのだけど、正規の絵具以外の表現方法が何かないものかと、世の中を見回すと、それまでありきたりのものに見えていた身の回りのものが、何だかじつに新鮮な、可能性を秘めたものとして見直されてくる。  とにかく路上の鉄屑をあれこれ探し歩いた末に、鉄屑の集積所、廃品回収の立て場というらしいが、鉄屑総本山ともいうべき所にたどり着いたときには昂奮し、感動した。ありとあらゆる鉄屑が山積みになっている。世間的には屑だけど、ぼくにはぎっしりと築き上げられた宝の山だ。インディ・ジョーンズみたいな気持になった。  屑となればすべて目方だから、かつてどんなに高級であった物でも、どんなに珍しかった物でも、猛烈に安い。ぼくは有頂天《うちようてん》になって、あれもこれもと仕入れて、金では買えない作品を作っていった。それはぼくが転んだわけじゃないけど、世間の実社会では転んで屑となってしまった物品類で、それをぼくがただでは起きないやり方で別の物に作り上げる。バトンタッチというか、複合的転んでもただでは起きない物件となったのである。  いったんその味を覚えると、正規の絵具や、新品の素材を買ってきてそれで何か作るというのが、何だか味気ない、ありきたりなことに見えてきてしまう。  その後は作ることにも飽きて路上観察をするようになり、さらにいろんな様態を発見した。たとえば玄関の脇に火鉢があって、中に水が張ってあって金魚が泳いでいた。火鉢というと、本来なら炭火がかんかんとおこっているはずの器である。その火のあるべきところに水と金魚だから、大変にシュールレアリズムであった。そんなものを見ると、たんにそのものの造形的面白さだけでなくて、その物の過去への繋がりが浮かんできてじつに面白い。  冷蔵庫もあった。玄関脇にいらなくなった冷蔵庫のドアを外したのが横にしてあって、そこに水が張られて金魚が……。何だか北氷洋の金魚を見るみたいで、思わず頬がほころんでしまうのだった。ほころんでもただでは起きない。いや関係ないか。 (画像省略)  テレビの中の金魚も見たことがある。これはまだ路上観察をはじめる前、ナム・ジュン・パイクがビデオアートをはじめるより前のことだ。逗子の友人の家へ遊びに行って、夜酒を買いに行ったら、酒屋の脇にあった。おそらく廃品になったのだろう、テレビボックスのガワだけがあり、中のブラウン管のあったところに金魚鉢が入れられて、そこに小さな照明までついている。まだぼくはカメラに目覚めていなくて、写真に撮ってなかったのが残念である。  テレビではもう一つ、鶏もあった。仲間の林丈二さんが見つけたもので、やはり廃物テレビの中で鶏を飼っていたのだそうだ。ブラウン管のところには金網が張ってある。例の六角形パターンの金網の向うに雄鶏《おんどり》が悠然といて、それは見事な風格だった。林さんは思わず近寄って、念のためにチャンネルを回してみたそうだ。何が念のためか。回して金魚に変るわけがない。思わず笑ってしまった。  そうだ、もう一つあった。やはりテレビで、これは南伸坊くんが見つけたのだと思ったが、やはり廃物テレビの中に、何かを植えた植木鉢が置いてあって葉っぱが前に突き出ている。金魚や鶏に比べて地味だけど、逆に何だか、見ていると、真面目な実況中継という感じがしてくる。生放送である。CMなし。  植物ものでは下町の玄関先などによく植木鉢が並べてあって、それが五つ六つと増殖して、十個二十個となり、玄関を塞いでもうほとんど人の出入りができなくなっているようなのを、ぼくらは路上植物園と名付けている。これをいろいろ見ていると、はじめはちゃんと正規の植木鉢にあれこれ植えていたのが、それ以上に植木欲が高じて植木鉢が間に合わなくなり、廃物の鍋、釜、洗面器、ヤカンその他、要するに容器状のものであれば何でも利用するという意欲があふれて、廃物利用の花盛りとなっていて、老人力の立場としてはじつに嬉しい光景である。  終戦直後においては、物資の欠乏が著しかった。金属類は戦時中に大半供出させられていたので、戦後はありとあらゆる物を利用していた。廃物の中でもとくに容器類は珍重されていて、ぼくの弁当箱はしばらくの間、中身を開けて食べてしまったオイルサーディンの空缶であった。  当時よくあったのは五寸釘製の小刀である。使おうと思えば使える釘だから廃物ではないかもしれぬが、でもどこからか拾ってきた古釘である。その先を金槌で叩いて平べったくする。これが大変労力のいる作業で、固い叩き台を何にするか、それを探すのに苦労したのを覚えている。ウマい子は釘をこっそりレールに置いて電車に轢《ひ》かせていたが、とにかくあれこれしながら平べったく叩き延ばした五寸釘の先を、さらにヤスリで削って、砥石で研いで、ナイフを作った。ヤキが入ってないので切れ味は悪かったが、鉛筆ぐらいは削れた。当時多くの男の子が経験していることで、あれは大東亜戦争で転んでしまった後の、ただでは起きない老人力の隠れたる萌芽であった。  そうだ、土地もある。大東亜戦争で転んでしまった土地が焼跡である。それがある時期区割りされて、配給になった。くれるわけではないけど、それぞれ適当に農作物でも作りなさいということになったのである。何しろ金はもちろんない時代、物もなかった。各自必要な物を作るしかない。うちでも垣根にツルを生やして南瓜《かぼちや》を作った。けっこう立派に実り、しめしめと思って食べてみると、じつに不味《まず》い。多くの人が経験しているはずである。やっぱりシロウトにはムリなのかとがっかりしていた。  だから焼跡が配給になってもそう嬉しくはなかったが、人から聞いた見よう見まねで、枝豆を植えてみた。ところがこれが意外にもちゃんと実って、食べたらじつにうまい。プロの枝豆と比べても遜色がない。何だかムクムクと希望が湧いてきた。  あとで聞くと、枝豆というのはむしろ枯れた土地というか、カルシウム分の土地がいいようで、瓦礫《がれき》の散らばる焼跡はむしろ枝豆には豊かな土地だったのである。  と、いろいろ書いたが、別に懐旧談ではない。いやそれもなくはないが、問題は転んでもただでは起きない老人力の、そのヒントがどこにあるかということで、その気になって見渡せば、どこにでもあるのである。 [#改ページ] [#1字下げ]物理的に証明された老人力[#「物理的に証明された老人力」はゴシック体]  で、今年(一九九八年)も健康診断に行ってきた。K病院の庭瀬康二先生のところだ。いつもいっしょに診てもらいに行く仲良しメンバーはF森照信、M田哲夫、ぼくの各氏。今年からM伸坊氏も加わる。  何のことはない、老人力の発見者二人と、発見された素材一人、それを本にした版元一人。  というより、何のことはない、路上観察学会のメンバーである。いずれH丈二氏も加わるかもしれない。  この健康診断はもう十年くらいも前からの行事だけど、毎年夏。同じ待合室でT梨豊氏に会ったのはまだライカ同盟のできる前だった。T梨さんもここの常連なのだ。  今年はそのニアミスはなかったが、珍しく同業のS氏と会った。庭瀬先生に診てもらっている文化人というか文化業界の人は多いようで、古くは谷川徹三さんとか、寺山修司さんとか、いろいろのようである。  待合室でM伸君、M田君と会い、二、三言かわしてもうゲラゲラと笑ったりしている。そのうちF森教授がきてまたゲラッとなり、路上観察学会というのは老人力うんぬんの前からよく笑う。  何故か前からそうだった。路上観察はじまりのころ、今日はフィールドワークだというのでカメラバッグを用意して、玄関で靴を履こうとしていると、それがよほどいそいそとした様子に見えるらしい。わが家人などはちょっと覚めたところがあるから、 「どうせまたみんなでゲラゲラ笑うんでしょ」  と言ったりしている。そうか、そういえばそうだなと思う。路上観察というのは大義名分で、じつは笑いたくて行くんだ。  受付をすませて待っていると、看護婦さんが出てきていろんなカルテの束を渡される。みんないっせいではなく、一人ずつ、ぱらぱらだ。コースはほぼ同じはずだが、やはり人によって多少のメニューの違いがあるのか。F森教授の場合は前から肝臓系のイエローカードが出ていて、そうなるとちょっと違ったりする。そうでなくても設備の空きを縫ってやってくれるので、いろいろ都合はあるようだ。  更衣室でパンツ一丁になり、検査衣みたいなのをはおる。それで各部所の前の廊下で待っていたりすると、もう完全に患者、というより囚われ人だ。あちこち忙しそうに往来している白衣の方々は、このエリアの支配階級。ぼくらはその圧政に苦しむ下層の民で、はい、すいません、お願いします、といって腰を折り、頭を下げて、何とかこの苦しい時代に耐えて、希望ある未来に脱け出ようとしている。  でも廊下のベンチで仲間に会うと、少しゲラッとなる。もちろん病院内であるから、大声で笑ったりしない。みんなもう地位と年齢をわきまえているから、クスリ、という程度。でもそういうゲラゲラ要素があるから血糖値も上がらず、心拍数も安定し、身体は活性を保っている。ゲラゲラは希望ある未来というより、希望ある現在なのだ。  病院内にはいろんな階級が往来している。ぼくらは裸に検査衣の健康診断階級だけど、ふだん着のままの外来階級がいるし、パジャマ姿の入院階級がいるし、その付添い階級がいるし、果物とか持った面会階級もいる。ときどき航空母艦に乗せられたような人が廊下をつるつると運ばれてきて、点滴状態のまま通り過ぎる。  そういういわば雑踏の中で、名前を呼ばれて、はい、といって中に入り、全身にコードを留められたり、バリウムの拷問を受けたりする。これは皆さんご存じでしょうね。ゲップの出る白い粉を飲まされ、さらにドロリとしたバリウムを飲まされる。当然ゲップがこみ上げてくるけど、出してはいけない。そのまま台に乗せられ、その台がぐーっと傾いたり、その上で体を回転させられたり、そのうち棒がでてきて腹をぐっと突かれたりするのだ。それを隣室からガラス越しに、支配階級がじっと見ている。感情とか人間性とかは一切無視して、内臓を見ているのだ。  まあこちらが望んだことだから仕方ない面もあり、圧政に苦しむといっても、それはじつはSM趣味じゃないか、といわれたら反論はできない。  まあそういうあれこれをしながら、心電図、胸のレントゲン、腹のレントゲン、頭のCTスキャンと、雑踏の中をあっちへ行ったりこっちへ行ったり。その途中で、仲間の顔がちらっと見えて、 「お……」  といったり、 「ゲラ……」  と笑ったり。これは何だか立食パーティの雰囲気である。お互い手にはカルテの束があって、立食パーティでも手にした皿にローストビーフとか、あれが何だか必要だけど邪魔じゃないですか。  とにかくそうやって検査が終り、カルテがあれこれ満たされて、それを庭瀬先生の窓口に提出して待っている。もうちゃんと自分の服に着換えてやれやれである。その間にちょっと血圧を測ったりする。前は看護婦さんが直接ゴムで縛って測ったりしていたが、いまはもう廊下の隅に簡単な器機が置いてあって、そこに自分で腕を突っ込む。  たしか去年からこの方式になり、最初は物珍しくて何度もやった。そうするとやるたびに数字が違う。え? どれが本当なのか、と考えてしまった。  あれは結局、占いみたいなものですね。おそらく最初のがいいんだ。当るも八卦《はつけ》、当らぬも八卦というが、ゼイチクを「エイッ」と半分に分けるあの占いも、何度もやれば当然数はいろいろ。そうするとどれを信じればいいのか迷ってしまう。やはりああいうのはずばり一度だ。血圧も同じだと思う。意味はちょっと違うが。 (画像省略)  で、庭瀬先生が顔を出し、全員が呼ばれる。本当は一人ずつなのかもしれない。まあみんな仲間なのでいっしょというわけ。  最初の待合室で会ったS氏も、同業界で知らぬ仲ではないというのでいっしょだった。まず順番としてはそのS氏から。腹部のレントゲン写真が一枚二枚と、ライトボックスの上に広げられる。S氏はいささか緊張の目で見ていて、あまり調子が良くはないらしい。聞くとこの日は健康診断じゃなくて、体調が本当に悪いので来ているのだ。十年前|胃潰瘍《いかいよう》で入院して以来の庭瀬先生とのおつき合いだそうだ。  庭瀬先生の診断は、胃に活力がないという。どの写真を見ても胃がしーんとしていて、動きがないのだ。ぼくら素人にはわからないが、それにしても、たしかに活力がないというのは感じられる。  庭瀬先生はS氏に仕事を減らせといっている。S氏は、え!? と困惑している。先生によると、薬物効果で内臓を活性化させることはできる。でもそれは一時的なことで、根本的には治らない。機能低下の原因はストレス、仕事を減らすしかない、がんがん忙しくてもストレスがなければいいが、そうじゃないでしょう、だったらムリしないで仕事を減らすこと、もう人生五分の四は棺桶に突っ込んでいるんだから、残りをちゃんと生きるか、なおもストレスで潰すかの問題、それはわかるでしょう、人生無限じゃないんだから。  凄いと思った。庭瀬先生もいうときはちゃんというんだ。いや、いままでぼくらはレントゲン写真にしてもパパパッと数秒で診られてしまって、何もない、大丈夫、で終ってあとは雑談。こっちは肩が痛いとか、目が霞むとかいおうとしても、大丈夫、歳とればいろいろ出てくる、でお終《しま》い。これでいいのかなと思っていた。でも今日のS氏にはずばりといっている。そうか、必要ならいうんだ。ぼくらには必要なかったんだ。余分なことをいわないのは、やはり名医である。  今回はそんなことに気がついた。しかしそれにしてもS氏の腹部の活性回復を祈る。ストレス追放にはゲラゲラが有効だ。  そのあとぼくらの番になった。ぼくらにはやっぱり問題点が見つからない。F森さんにイエローカードの出ていた肝臓関係も、今回は正常値で、節食の努力が実ったようだ。しかし節食でもぼくの三倍は食いますよ。まあとにかく目出度いことである。  M伸君ははじめてだったが、胃に潰瘍の跡が三つ発見された。過去に発生して自然治癒した跡だ。M伸君は、え? と驚いている。驚きながら過去を振り返る表情が、やはり健康診断は人生だなあと思う。  え!? 伸坊にストレスがあるの? なんてみんなに冷やかされている。でもM伸は過去を振り返りながら、うーん、たしかにS林堂をやめて独立したころ、ひょっとしてそうかもしれないな、と述懐している。  自分でも知らない潰瘍の自然治癒の跡は、最初のときM田君にも発見されている。F森さんにはない。ないどころか、その活性は狂暴なほどだ。素人でもレントゲン写真を見てわかる。ボディビルで筋肉のムキムキマンというのはいるけど、内臓ビルでムキムキ胃袋の大会をやったら、世界制覇も夢じゃないんじゃないか。  次に頭のCTスキャン。ぼくは今回はじめて。まずM伸君のを見る。頭のてっぺんから目玉の高さまで、水平輪切りで十三枚。科学雑誌などでよく見るけど、これが現実の友人の脳ミソだと思うと変な気分だ。順に診ていきながら、まったく問題ないという。問題ないのをいいことに、脳の説明をしてもらう。真ん中辺で脳みその詰まり具合に隙間があり、脳室というらしいが、これがたとえばG平さんのは、といってぼくのを横に並べた。 「ほらっ隙間が大きいでしょう。順調に老化している。正常ですよ。着実に老人力がアップしている」  そういわれて、しばし茫然とした。たしかに違う。うっすらと黒い隙間部分が、たしかにM伸君のよりは増殖していて、皺みたいになったところもある。M伸君のところを見ると、明らかにまだ脳に張りがある。  凄いと思った。いろいろ口ではいっているけど、ちゃんと物質的に、脳にあらわれている。少々打ちのめされた気持と同時に、勝ち誇ったような気にもなった。やっぱり正しい。老人力が物理的にも証明された。 「この人は着実にボケていくタイプ。血圧その他の血管系はまったくキレイだから、ボケがつまずくことなく確実に維持される。本人は最高。回りは大変かもしれないけど」  もうそれ以上は考えないことにした。冗談が現実になるという、路上観察をめぐっては何度もそれを体験したが、この老人力の冗談も確実である。 「そうだ、忘れないうちに、先生に……」  といって庭瀬先生がカメラを持ち出してきた。ぼくは近年カメラ好きが高じて、カメラ雑誌にいくつか連載をしたりしているから、ここでは「先生」ということになっている。その持ち出してきたカメラはペンタックスMZ・5。レンズを外してあってシャッターが直かに見える。フォーカルプレーンの縦走りメタルシャッター。それが一部歪んで、隙間が出来ている。 「あのね、写真が下半分しか写らないんで、指で直そうとしたんだけど」  庭瀬先生がそういうので驚いた。 「え!? シャッター、指で触ったんですか」 「ダメなの?」 「ダメですよ、ここは触っちゃ絶対にダメですよ」  ばかだなあ、とはいわなかったけど、庭瀬先生は何だかすがるような目つきで、 「え? 触っちゃダメなの?」  とまだいっている。立場は完全に逆転である。ぼくが診断して叱る立場だ。しかしそれにしても、あんな微弱なカメラのシャッターを指で触るなんて、ぼくにはまるで考えられない。昔の機械式カメラならまだしも、いまの電子式カメラは指でなんて直しようがないですよ。庭瀬先生は外科の名医である。しかしカメラは有機物じゃないんだ。気持はわかるが。 [#改ページ] [#1字下げ]テポドンと革命的楽観主義[#「テポドンと革命的楽観主義」はゴシック体] 「老人力」が本になって出てから、こちらもいろいろ大変である。本になるというのは、場合によっては新しい事件なんだとつくづく感じた。それまで「ちくま」に連載していたから、さみだれ的には出ていたはずなのに、その積み重ねを一固まりにして出したら、またどーんと新しい反応が起きたのである。  毛蟹を食べるとき、ほじる端から食べる人と、小鉢に溜めておいてから、どん、と食べる人がいる。つまり連載時は前者で、まとめて本にするのは後者ということか。それを両方やったのだから贅沢。  世間にはいくつかの層が重なっている。老人力のことは、最初ある新聞にエッセイを書いたら、ある一部地域に反応があった。それではというので「ちくま」に連載をはじめたら、その一部地域の反応がいわば二部地域に広がった。それが本になって出たら三部地域へ、というわけで、いずれ英訳されたらまた新しい層に、となるかどうか、あまり調子に乗ってはいけない。人間の言葉だからといって、すべてが翻訳できるわけではない。  老人力なんて英語で何というのか、ぼくにはぜんぜんわからない。オールドパワーといったって、ウイスキーじゃないんだし、いやしかしスコッチの二十年もの、三十年ものとなると、ちょっとした老人力かな、という気もするが、やっぱり違うなあ。  老賢人という言葉があって、スコッチの年代ものはそっちの方になるだろう。「スター・ウォーズ」にヨーダというのが出てきて、あれがアメリカ人の考える東洋の老賢人だと思う。一見老人力に通じそうだが、やはりちょっと違うのである。ヨーダには老人力があるだろうか。あのヨーダさんは、東京ドームの切符を二枚失くしたりするだろうか。  いや失くせばいいというもんじゃないが、ヨーダの場合はその失くした場所をぴたりと言い当てるという気がする。有機的ではあるけど、やはり集積回路なんじゃないかな。  いかんいかん、話がすぐ難解方面に行きたがる。「老人力」の本が出てすぐ、東京新宿の紀伊國屋ホールで記念大会が開かれた。「老人力 vs. 不良中年」というタイトルで、出席者は嵐山光三郎氏、ねじめ正一氏、南伸坊氏、そして小生。  面白かったなあ。みんなよくしゃべり、よく笑い、でもじつは真面目で、満員の聴衆は席を立たず、何か結論が出たような気がするが、いまは忘れた。筋道をたどればその時の結論を思い出すんだが、つまり、まあいずれ明らかになってくるだろう。  終って関係者一同とりあえずビールというわけで、そこでの話がまた面白かった。世の中は折しも大相撲で、話題は貴乃花、となると洗脳は避けて通れないわけで、 「しかし露地裏の、よく�整体治療�とかやってるような小さな診療所にさ、�洗脳�って看板が出てたら凄いだろうね」  という嵐山不良中年の発言から一気に盛り上がった。あり得る。露地裏だからまだ井戸が生きていて、その井戸端で、お客から取り出した脳を洗っているのである。ごしごし洗っちゃいけない。軟らかいから気をつけて、脳を潰さないように、そうっと水の中で揺らしながら洗っている。 「うちは手洗いだからね」  と洗脳師が自慢している。 「水道の水じゃだめだよ。カルキが脳を傷める」  部屋の中をそうっと見ると、脳を外したお客がじーっと椅子に坐って待っている。月に一度は洗脳に来ているという。仕上がりは、脳をお預りしてから四十分。よく乾かして戻した後は肩を揉んだり、顔も剃ってくれる。何だ。それじゃ床屋じゃないか。  とにかく洗脳で盛り上がった。力士の場合は、シコ名を「洗脳山」なんていいんじゃないか。洗うから川がいいか。「洗脳川」。ごろが悪いな。「洗脳海」。だめだね。やはり「洗脳山」だ。 「東いー、洗脳ー山ーっ」  怖いでしょうね。仕切り直しするときニコリともしない。まあ考えたら力士はみんなそんな雰囲気だが。  いけない。テーマは老人力である。何でも口から出まかせに書けばいいというものでもない。でもとにかく口から出してみることは必要である。  思うんだけど、老人力というのは口から出たばかりだから面白いんじゃないか。路上観察学会の中で、ほとんど口から出まかせ状態で出てきて、出たはいいが、さて今後どうなるのか、自分たちにもわからない。だから老人力についてインタビューを受けたりしながら、自分でもなるほどと思う新しい見解が自分から出てきたりする。インタビュアーの資質によって、それがAの形で出てきたり、Bの形で出てきたり。自分はもちろん何か回答しようとしていうんだけど、それが相手の力によっても出方がいろいろある。やはり生れ出る現場というのは面白いなと思った。回答者のぼくは一種の口寄せみたいなもので、ぼくをも含めて興味をもつみんながよってたかって引きずり出しているのだ。  どこだったかのメディアのインタビューで受け答えをしながら、いまの若者の問題になってきた。 「先生のご文章の中で、いまの若者も老人力を持っているというようなお話が……」  はい、それは常々感じている、ぼくらの時代と違って、いまの若者はあらかじめ年老いているというか、ワケ知り感覚というか、たんたんとしているというか。 「シラけるといいますね」  そう、いまの若者はシラけるという、それは若者なりの老人力なのかと訊かれて、ちょっと違うなあとピンときた。たしかに老人力の背後にはアキラメというのが沈んでいる。諦観《ていかん》といったりする。人間ちょぼちょぼやとか、まあ人生ぼちぼちとかいう気分の底を探ると、たしかに諦観というのが発掘される。そのアキラメとシラケは同じなのかといわれてみると、ちょっと違う。どう違うのか。  アキラメというのは人生的なものである。体験に基づくというか、体験の集積というか、いずれにしろ体に発するというか、体からじわりと湧き出る。  それにひきかえ、シラケというのは、体験からのものとは違う。じーっと頭で考えさせられて、右もだめ、左もだめ、上に行ってもしょうがない、やる気がしない、シラける、というものではないのかな。  つまりシラケの原因はデータ的なものだと思う。よくいわれるように、いわゆる偏差値がどうのとか、就職がどうのとか、就職もしないうちから予測してシラけている。頭だけでシラけて、体は出ていけない。そういう頭がなければ、体は平気でどこにでも出ていけるのに、頭のお陰でそうはなれない。人格のほとんどが頭の考えで覆われ、頭の支配に体が屈服してしまっている状態。  つまらぬ頭に支配されて、バカだなあと思う。まあしかし、それも人生。  それは冷たい言い方だというご意見もあろう。しかしシラけた頭に暖かく言葉で説諭できるか。言葉で論理は展開できても、シラケに言葉は有効だろうか。  まあムリですね。ぼくはそうなったら体しかないと思う。体に訊いてみよう。体で答えてもらおうじゃないか。  ちょっと怖いことになってきましたね。  とにかく、いまの若者にも老人力が、という考えには一理あるが、シラケというのがそれに並ぶかというと、一見そのようだけど違うと思う。  わかりませんよ。まだ研究段階です。老人力なんていまはじまったばかりだ。 (画像省略)  もう一つ、面白いインタビューがあったなあ。あるとき老人力のメインインタビューが終り、何となく雑談となった。時節がら話はテポドンとなり、あれは何でしょう、といっているうちに、 「いや、北朝鮮はじつは老人力の国なんじゃないかと思いましたね」  というので驚いた。その人はある新聞の記者なんだけど、大学のときの専攻が朝鮮語だという。北朝鮮にも何度か行ったことがあるという。え? それは凄いな。とこちらは身を乗り出した。何しろベールに閉ざされた国なので、いろいろ知りたい。  その人がいうには、空港でもホテルでも、だいたいみんな両手を後ろ手に組んで、背中を丸めぎみに、ぼんやり立っている印象があるという。つまり佇《たたず》む姿そのものに老いた印象があるという。  うーん、しかしあの国は表向きと裏向きと違うらしいから、というと、確かにそうだけど、その人は何しろ研究者だから、いわゆる表向きからちょっと踏み込んだ奥もかいま見ているようだ。その上での印象だという。こちら側から見ると一見みすぼらしく、体制的にも圧迫された関係を想像するけど、国の人々自身は、意外とのんびり生活しているらしい。そうかなあ。  いや、そうなんです。そもそも儒教の国で、儒教というのは労働蔑視で、せっせと働くのはばかなことだという気持があるから、いや本当、老人力なんですよ。  え? と思った。儒教精神は目上の人を敬う、ということは知ってたけど、労働を蔑《さげす》むとは。ぼくは勉強しないので知らなかった。でもわかる。なるほど、儒教というのはそうなのか。  ですからね、そういう国に共産主義だから、働かざる者は食うべからずでしょう、もうおかしなことになって当然。でもそれを平気で両立というか、立じゃないかもしれないけど、とにかく矛盾なんて聞き流す感じで、みんな男たちはぼんやり魚釣ったりして、釣りといっても本当にそこいら辺の棒切れに糸なんだけど、のんびり糸垂らして、それがけっこう釣れるみたい。だから自給自足で案外やってるようですよ。  うーん……、そうですか……。  それで、いまは例のテポドンで、もう国中が慶祝ムードで、少くとも裏通りは沸き立っている。道を行くバスの横腹にでかでかと大きな字で、何て書いてあると思いますか。 「革命的楽観主義」  え? それバスの横腹に?  そうです。もう一つ。 「行く道は険しくとも笑って進もう」  …………。  参りましたね。向うの「労働新聞」(98・9・10)に写真入りで堂々と出ているのだ。凄い。パロディじゃないんだ。  じつは先日あるメディアから話があった。このところ日本は暗い話ばかりで、陰惨な事件はつづくし、景気は悪いし、そこで一つ新年号では老人力を含む形で特集をするのでご協力を、特集は「超楽観主義」というのを考えてるんですけど。  という話を聞いたばかりなのだ。なるほど、世間的にもそうなっていくのか、ふむふむ。と思っていたところへこの「革命的楽観主義」だから、これはぶっ飛ぶ。それも国家規模ですよ。規模というより、国家だ。国の言葉で「笑って進もう」だから、やはりこれは参りました。  ぼくらは民間である。でも互いに似たような言葉に沸いているところ、じつは両国、ひょっとして同じ状況にあるんじゃないか。これ、どう解釈すればいいんだろう。こちらからは彼の国をまるで異質の、話の通じない、とんでもない国と見ているフシがあるけど、それはじつはこの自分の国のことなのかもしれない。向うはテポドン一発だけど、こちらはそれを細かく分割して、民主平等じゃないけど、一家に一台ミニテポドンを作り上げたりしている、のではないかと、思ったりしたのであった。  世の中には凄いことがある。目からウロコというのとはちょっと違うが、老人力という言葉に対するこの日本の慶祝ムードの中で、何かとんでもないゲリラ老人力に見舞われたような気がした。 [#改ページ] [#1字下げ]眠っちゃうぞ[#「眠っちゃうぞ」はゴシック体]  くさやって老人力だろうか。  臭いけどぼくは大好きである。何十年、ものによっては何百年の昔からのどろどろの海水液を使い、それに鰺《あじ》や飛魚などを漬けて乾かす。酒にうまいし、飯にうまい。あの味、あの存在は老人力じゃないだろうか。  いや、ムリにこじつけるわけじゃないけど、最近は大変なのである。老人力をめぐってインタビューを受けたり、講演をしたり、ラジオに出たりして、妙にウケているのだ。  ふだんぼくの本を読んでくれる人は限られている、とぼくは思っている。それはぼくの能力の限界でもあり、ぼくの書くものがちょっとヒネくれているせいでもあるのだろうが、こんど出した『老人力』は、どうもその限界を超えて読まれているようだ。ヒネくれてない人まで読んでいるようで、それでいろいろと忙しくなっている。  それは有難いことなんだけど、インタビューも重なるうちには同じことばかりしゃべるのはつまらなくなってくる。講演にしてもそうだ。人間って何か新しいものを欲しがるもので、ぼくだって人間だから、老人力についてもありきたりの説明では自分でもつまらなくなってくる。ボケ味だとか、マイナスの力だとか、力を抜く力だとか、あれこれ言いつくしてどうも面白くない。この連載も今回さて、と思って原稿用紙に向いながら、ふとくさやの香りがしたのだ。  そうだ、くさやって老人力だろうか。  伊豆大島のT口君から送られてきたのである。久し振りに飛魚のくさやが入ったので送りますということで、家ではこの飛魚が大好きである。晩飯に早速焼いたら臭い、臭い。それと同時に美味《うま》い、美味い。  まあこの辺はご意見の分れるところであろう。この匂いの嫌いな人もいるのである。むしろその人たちの方が多いか、どうか。まだ統計的なことは聞いたことがないが、おそらくこれには見栄嫌いというのも含まれていると思うわけで、あんな臭いもの食べられないと一人がいうと、 「そうですわね」 「本当に鼻が曲がりそうで」 「よく食べられますわね」 「下品な匂い」  というふうに、本当は食べたいけど嫌いなフリをする、というのがあるかもしれない。  でもくさやって、老人力じゃないだろうか。老人力なんてどうせ冗談、というニュアンスがあるから、いまのところ見栄嫌いまではされずにいるようだけど、老人力発見以前のただの老人という言葉は、あちこちで見栄嫌いをされていたのである。若さに見栄を張るという傾向があったわけで、いまだって大半はそうではあるけど、まあ張らなくてもいいか、という、一種の逆イエローカードというのが老人力である。  ぼくは理屈っぽいところがありますね。最近つくづくそう思う。老人力のような微妙な、説明のしにくい、あいまいな力について説明しようとすればするほど、自分の中の理屈っぽさがエスカレートするという傾向がある。このたびのようにヒネくれてない人にまで読まれてしまうと、読後感として、 「ちょっと理屈っぽい」  とか、 「難しいところがある」  とかいわれてしまうわけで、これは警戒しなければいけない問題である。いや人気取り政策のためではなくて、老人力というのは論理では追いきれない問題があるからだ。というより、真面目に論理で追っていくと、相手を見失う、問題の老人力が蒸発してしまう、ということが要警戒なのである。  まあこの辺は不確定性原理の事情と同じで、見ようとすることによって見られるものが変化するという、ほらまた、理屈が出てきた。反省はしているんだが。  でも自分でもその辺は薄々感じていて、この問題に関してはできるだけ現物照合で行った方がいいと思っている。つまり老人力については論理的な解明を迫るよりも、まず一つ一つ現実の断片を持ってきて老人力と照合してみる。あれは老人力かな。これも老人力かな。とやっていくのが正確というか、いちばん間違いがない。  で、くさやって老人力だろうか。  いや別にこだわるわけではありません。 (画像省略)  そういえば、くさやじゃないけど、ワインの味の説明にも、同様の苦労があるようですね。あれはワインの味の表現というのだろうか。 「なめし皮の匂い」  とか、 「砂浜を歩く靴底のざらつきのような」  とか、いや実際には何というか知らないけど、例のソムリエの試験ではいろいろというようである。思えばワインの味というのも論理では追えないものだから、そうやって様々な現実の断片をもってきて照合させているのである。  老人力のソムリエ、というのが、いずれ、あり得るのかもしれない。 「この方の老人力は、いわば、くさやの匂いの底にある、洗いたてのほうれん草が、最後の雫《しずく》を切った先の、右に曲って三軒目の、格子戸の引手のところの、錆びた感触に潜む時計の針みたいに……」  結局は何だかわからず、えんえんと現実断片の照合だけがつづくのである。だから老人力はいずれ現代詩の一つの技術として教科書に載るかもしれない。路上観察は徘徊老人みたいなものだとよくいっているのだけど、徘徊老人が言葉の世界にずれ込んで行くと、これはもういやおうもなく現代詩になっていく。  老人力をめぐるテーマで、この間は精神科医の大平健さんと対談した。そこで聞いた話がすごく面白かった。精神治療の世界には、 「もう老人力が充満してますよ」  というのである。何しろ物理じゃなくて精神を扱う世界だから、はっきりとした答はなくて、治療といっても何となく、だいたいの感じでぐじゃぐじゃと進むものらしい。  精神科医の卵時代は、まず自分の先生について、診療所に来る患者さんとのやりとりの記録係からはじまるそうだ。つまり先生の秘書みたいなことをしながら、患者さんとの接し方を覚える、一種の徒弟制度みたいなもんだという。弟子入りというか。  大平さんの先生はあの『「甘え」の構造』の土居健郎さんだったそうだ。患者さんが来て、先生が、どうしましたか、とか尋ねて、患者さんがあれこれ言う。先生がそれを、ほうほう、と聞いて、ちょこっと何か言って、患者さんがまた何かもじゃもじゃと言って、そんなやりとりを全部書き留めていく。それを毎日繰り返しながら、そのやり方を身につけていくというんだから、これはたしかに職人とか古典芸能の世界だ。  話の間合いというのもあるらしいのである。精神治療というのは、闇雲に結論を急いでもだめなんだという。ただ論理的に考えて、原因はこれだ、というわけにはいかないらしい。相手はとにかく精神で、その精神が自分で立ち直るのを手助けするといったものだから、話の聞き役、という面が強いらしい。  何しろただの論理ではないんだから、話にゆったりとした間合いがいる。大平さんが書き留めをしていて、先生のその間合いが相当長いときがある。 「そうか、うーん……、それはしかし……ねえ……」  とかいって、ずうっと沈黙がつづく。長いなあ、と思っていると、 「うーん……」  と腕組みして唸《うな》ったりして、また沈黙がつづく。大平さんがようく顔を見ると、先生は腕組みしたままもう眠り込んでいるんだという。  いいなあ、この話。ぼくは嬉しくなってしまった。もうほとんど志ん生ではないか。あの人は高座で落語の最中に、眠り込んでしまったという。ほとんどその境地だ。  患者さんの方が困った顔をして、 「先生が眠ってしまいました。ぼくは今日は帰ります」  ということになる。その逆のことがあって、分裂病の人が両腕を抱えられて、診察室に来たという。患者は病院に来るのに物凄く抵抗して暴れていて、物凄い形相をしている。 「まあとにかくお掛けなさい」  ということで、先生は落着いて問診をはじめる。患者はとにかくリキんでいて、まともに答えようとはしない。先生は型通りのことをいろいろ訊いたりしながら、 「うーん、しかしそれはねえ……」  と腕組みして、そのときも、 「うーん……」  と長い間唸りながら、結局は眠り込んでしまったという。それまで両腕を押さえられてリキんでいた患者は、それを見て拍子抜けして、呆れたような顔をして、 「……わかりました、わたし、もう入院します……」  となったそうだ。その患者が去ったあとも先生は本格的に眠り込んでいたというから、もうこれは完全に名人だとぼくは思う。だって患者もそれで和らいだんだから。  そんな話をいろいろ聞いて、凄いなあと思った。この世界は凄い。たしかに老人力が充満している。  いやもちろん、眠ればいいというものではないんだけど、ぼくも若いころはノイローゼになったり、不眠症に苦しんだりして、精神科のドアを叩いてみたい気がなくはなかったから、そのドアの向うにこういう先生がいることの凄さというのが、少しは身にしみてわかるのである。  大平さんとの対談はこの話にはじまって、精神科の場所にあふれている老人力的様相についていろいろ聞かされたんだけど、この大先生の眠る話、精神医療における志ん生師匠的エピソードがあまりにも強烈だったので、ちょっとほかの細かいことを忘れてしまった。  でもやはり、どうして面白かったかというと、一種の逆打ちというか、本音の世界での逆説というか。  精神科が扱うのは頭の病気である。その頭の病気を治すのに、頭の考えが通用しにくい。論理的にだけ考えたんではダメなようで、何となくの感じで、とりあえずぐじゃぐじゃやっていく必要があるらしいのだ。もちろんそれだけではないのだろうが、ものの進め方のベースは、何となく、とりあえず、まあ今日のところは、適当に、いい天気ですね、いやいやどうも、といった感じらしいのである。  わかるなあ。頭も結局は体なんだ。なんて当り前の話だけど、最近の人間というのはいちいち項目別に考える癖がついているから、こんなことにもなってしまう。  精神科にはもちろん本格的なボケ老人がいて、一人でいつもぐずぐずとしゃべっている人がいる。一見何も脈絡のない話なんだけど、よく聞いているとだいたいが何かのたとえ話になっているらしい、という大平さんの観察も面白かった。もちろんすべてを照合解明できるわけではないけど、とにかくそのように感じられるという。  それからそういう人を見ていると、思わず触りたくなるという。カメラみたいだな、とぼくなんかは思ってしまったが、とにかく肩をなでたり、ぽんと叩いたりしたくなるんだという。それも何かわかるような気がするが、こちらは体験がないのでまだはっきりとはわからない。  でもとにかく頭の考えをずうっと降りていって、考えが細かく、粒子状の、粉みたいになった流れの中で、老人力と溶けあっている体の世界を感じたのである。 [#改ページ] [#1字下げ]コンニャク芋の里[#「コンニャク芋の里」はゴシック体]  今年(一九九九年)はもう遠慮せずに暖かくしようと思って実行している。部屋の暖房を上げるのは好きじゃないので、ほどほどにしているが、着るものはしっかり着込むようにしている。  ぼくの弱点は足首と首筋だ。冷え込みに弱い。とくに足首が冷えるとすぐ喉に来て、ちくちくと咳込みはじめる。だからレッグウォーマーを着用している。女子高生のあれは防寒用じゃなく注目用だが、ぼくの場合は明らかに防寒なので、毛のものを着用している。  これは大変便利で、たとえば飛行機の中など高空で足腰の冷える場合があるが、レッグウォーマーをバッグから出して足首に装着するだけで、ずいぶん体温が安定する。  首筋はぼくの場合細いのが欠点だと思う。何だか冷えやすい。マイク・タイソンぐらいに太いと大丈夫だろうが、これはもう仕方がない。家にいるときは薄手のマフラーを巻いたりタオルを巻いたり、しかしそのスタイルでぱっと鏡を見ると、早くも風邪を引いたみたいだけど、まあ背に腹は代えられぬ。首筋が暖かいとだいぶ安心する。暑くなれば取ればいい。カメラの場合のフードとかレンズキャップくらいの感じだ。  モモヒキも正式に採用した。これまではモモヒキなしでも、ちょっと痩我慢《やせがまん》をプラスすればまあ何とか過すことが出来たが、これからはそういうちょっとしたプラスマイナスの小細工はやめる。近年は老人力という言葉が認知されたことでもあるし、モモヒキは内部的な正装に取り入れている。  これまでだって、モモヒキを非公式に着用することはあった。それが公式採用とならなかったのは、見栄とかの心理的要因もあるけれど、人体の過保護に対する配慮もあった。モモヒキ着用で当面の寒さは防げるにしても、体がちっとも鍛えられずに、ひ弱になっていくんじゃないか。  でも人体が年金世代に突入すると、もうその考えも通用しにくくなる。精神はしゃんとしてるといっても目はかすむし、腰は曲がるし、皮膚はかさついて痒《かゆ》くなるし、ヨダレは垂れて電気カミソリの音が変るし、人の名前はどんどん忘れる。用事も忘れる。  そんなことの連続攻撃で、ひ弱になるんじゃ、どころではなくなってくるのだ。  というので今年は遠慮なく着込むことに決めた。暖房では駄目なのである。部屋の空気はある程度涼しくないと気分が冴えない。頭寒足熱というのは本当に正しい。頭が冷えるからといって風邪を引くことはない。むしろ頭を暖めるとボーッとして、風邪引いたみたいになってくる。 (画像省略)  風邪は去年の冬に夫婦揃って大型のを引いてしまって、やはりその反省もある。それとこの間、義父が風邪をこじらせて亡くなってしまった。もともと肝臓系とか心臓系がいろいろ悪くなっていて、入退院を繰り返していた。心筋梗塞も既に二回やっている。またもうじき大きい注射で、肝臓にじかにエタノールをどうのとかいうことで、もういいよといっていたそうだ。去年の十月ごろ、ふっと体調も良いので、故郷の新潟へ旅した。家を継がずに上京した長男で、新潟にはいろいろと下の兄弟がたくさんいる。みんなと久し振りに酒を飲んだりしたのだろう。よほど気分も良かったようで、予定を三日延ばして近くの温泉へ行った。ぬるい湯が好まれている温泉なのだそうだけど、そこに入って風邪を引いてしまった。これはまずいと思ったら肺炎となり、入院。重体となり、酸素マスクをつけたりしたが、危篤となり、ついに還らぬ人となった。  うちの妻は酸素マスクのときに駈けつけ、目は合ったが、意識が通じたかどうかはわからないという。通夜の晩にみんなで語り合ったのだけど、半分覚悟の旅のような気がしてならない。人が亡くなるとよくこういう話を聞くもので、死の前に何気なく親兄弟に会いに行っている例は多い。ぼくの叔父も、亡くなるちょっと前に突然父のところまで旅してきて、不思議なもんだなあと父もいっていた。  義父の祭壇にはちゃんとしっかり撮られた遺影が飾られていて、そのモトの写真は旅の財布の中に入っていたそうだ。義母がいうには、わりと最近写真館で撮ったものだそうで、何だかますます覚悟の旅という気がしてならない。  戦時中は憲兵だった。終戦時は南方のその土地で人民裁判にかけられたそうだ。そこで銃殺となった人も何人かいるらしい。戦中派の人の生きている覚悟というのは、その後のぼくらとはやはり相当違うものなんだろうと想像する。  ぼくは新潟のその妻の親戚筋の人とはほとんどがはじめてで、妻にしてもはじめてみたいなもので、それでも凄く懐しそうにしていた。ぼくだって、亡父の故郷の鹿児島に、住んだことはないが、その地に行って親戚筋の人に会うと、何だか懐しい。  新潟の実家は四男の弟さんが継いでいて、久し振りにナマの田舎の空気にひたらせてもらった。出されたコンニャクの煮つけが美味しくて、聞くと芋から全部自家製のものだという。妻と二人うまいうまいといっていたら、じゃあ芋をやるから作ってみるかといわれて、妻はその作り方を細かくメモしていた。親戚のものが寄ってたかって、コンニャクはああ作るんだ、こう作るんだと賑《にぎ》やかだ。前に一度だけ会ったことのある電気屋の叔父さんが、芋を摺って煮るときの水かげんは、しゃもじですっと切ってみて、摺った芋が両側からゆっくりと戻っていく、そのくらいがいいのだという。データなどもちろんなく、口伝である。  何だか食べ物とは思えない形のコンニャク芋を妻は嬉しそうにもらって帰り、明くる日早速やってみている。台所で、本来の飯はそっちのけにして、何かことことやっていて、出来たという。 「うまく固まらなくて、ちょっとぐすぐすなんだけど」  といっている。形は悪くて、明らかに手作りふうである。どれどれというので食べてみると、かなり芋の感じがする。見かけはコンニャクになってるんだけど、コンニャクはやはり芋なんだということを実感した。うちではよくじゃが芋を摺り下ろしてフライパンで焼いて食べたりするが、あの感触によく似ている。やはり芋どうしだ。  でもかなりえがら[#「えがら」に傍点]かった。一口、二口と食べてみたけど、相当えがらい。これは全部は食べない方がいいと、本能的に思われた。  どうしたんだろう、何が違うのだ。妻はいわれた通りやって自信はあったんだけど、と悔しがっている。やはりいわれた通り、コンニャクはシロートには難しいのか。  明くる日新潟から、コンニャクの匂いのこもった声の電話がかかってきて、葬式のときにはどうも、というご挨拶だ。途中電話を代って、妻が向うの奥さんに、コンニャクのことを尋ねている。あ、そうですか、あ、そうですか、といって、ちぇっ、とかいっている。  電話を切ってから聞くと、あそこまでは正しかったんだそうだ。でもあのあとまだ煮るんだそうで、形になったあと煮汁を替えながら三回煮てアク出しをするんだという。ちぇっというのは、もう失敗したと思って捨てちゃっていたんだ。しかし向うもそこまでちゃんとやるとは見直したようで、じゃあまた新しくコンニャク芋を送るという。  新潟の親戚なんていままでほとんど行き来はなかったのに、義父が亡くなったことで俄《にわ》かに交流がはじまり、皮肉なものである。それなら生前からそうなっていれば、義父としても嬉しかろうに、と思うけど、世の中とはそうしたもののようである。  ぼくも父や母や、親戚などの葬式のたびに、それを感じていた。誰か亡くなるまではそんなに交流もなく離れ離れなのに、亡くなったことで集まり、親しく話したりする。 「亡くなったお爺ちゃんが、みんなを引き寄せているんだねえ」  と、わけ知りの大人はいう。ぼくだってもうだいぶ葬式を経験した大人だけど、そうだなあと思う。  また新潟から芋が送られてきて、妻は再挑戦している。さっき、 「ほら……」  といって深鍋の中を見せられた。丸くぼたっとしたコンニャクらしき物が、煮え立つお湯に揺れていた。固さはちゃんとしたようだけど、まあ食べてみるまではわからない。  とにかくそんなわけで、今年は堂々と着込むようにしている。とくに風邪には気をつけているんだけど、ちょっといま引きかげんでまずいのである。きのう強羅から帰ってきたが、二泊三日のカンヅメだった。仕事をしている新聞社の宿泊施設で、強羅だから温泉だァ、とお湯に入ったら、物凄くぬるい。え? と考えたが、ぬるいというより冷い。後で聞いたら誰か水を出しっ放しにしたらしいのだが、こりゃいかんと、義父の温泉を思い出してしまった。ぼくはまだ覚悟は出来ていない。ある程度出来てはいるが、まだ固まっていない。ちょうどそうだ、出来そこないのコンニャクみたいだ。このままではいかん。  そこそこに出て体を拭いて服を着たけど、どうも、その辺りから風邪を引いたのである。首巻きもして、レッグウォーマーもしっかり装着しているけど、ホテルとか施設の暖房というのは乾燥し過ぎで、やはり喉からチリチリ来はじめている。  人体というのは地球みたいだとつくづく思う。どこか末端のちょっとした冷え込みが、どこをどう伝わるのか、他の部分に影響としてあらわれてくる。人体をエルニーニョ現象だとか、寒冷前線だとかが、絶えず流れ動いていて止ることをしない。まあそれが生きている証拠なんだろうが、生きている状態というのは、落着きのないものである。 [#改ページ] [#1字下げ]田舎の力を分析すると[#「田舎の力を分析すると」はゴシック体]  このところ電話を取ると、 「じつはちょっと老人力のことで……」  というのばかりで、自分が老人力の世の窓口になっている。老人力市役所の市民相談係というか。あるいは老人力館の入場切符のモギリ嬢。モギリ男。駅の切符はいまは自動改札になっている。その機械の並んだいちばん端の窓口で、ナマの駅員が一人だけじーっと見ている。トイレに行くとか、複雑な乗り換えで頭のこんがらかった人などが、その駅員に説明してもらっている。  ぼくはいわばあの立場なのかもしれない。老人力線への乗り換えを、あれこれ説明する立場である。乗り換えの簡単な人もいれば、複雑な人もいる。 「この切符ではダメですよ……」  なんて場合は、ちょっと可哀相ですね。老人になれなくて、じゃあどうすりゃいいんだというのでおろおろ。  いやそんなことはないが、しかしあり得る話である。 「中にトイレはありませんよ」  なんていわれたら悲劇である。このまま一生トイレにいけないのか。  いや冗談だけど、とにかくそうやって、老人力については、窓口係としていろいろ話してきた。老人力とはこれこれこういうものである。あれこれああいうものである。半分は説明であり、でもインタビュアーが思わぬ質問を発したときには、なるほど、それはどうなんだろうと、説明を超えて老人力の論究となる。でもやはりこちらが発起人である関係上、やはり説明となる場合が多いか。  しかし説明といっても、しゃべる以上はいろいろに新しくしないと面白くないのだけど、この間あるインタビューに答えながら、 「老人力というのは、ある意味、田舎の力ということです」  と発言して、あ、これはいいな、と思った。老人力は田舎力だ。これは前から何となく思っていたことなんだけど、失言みたいな感じでいきなり口に出していってみると、自分でも、そうだ、やっぱりそうなんだと思う。  ひところ、田舎といういい方は差別だ、みたいな意見があったが、とんでもないことだ。田舎が蔑称であるとする頭の中は、都市こそは素晴しいとする考えに占領されているわけで、その考えをたどると、人工管理の極点に到る。  都市というのはたしかに素晴しい面はあるが、つまらぬ面もたくさんあって、そこで田舎が出てくるのである。  以前ブータンに旅行したことがあって、ちょっと見にはブータンは泥つき生活みたいで貧しそうに見えるのだけど、次々に出合う人々の目が、いまの日本人に比べたら明らかにパキッと澄んでいて、活気があった。経済成長とかの数字でいうと、恐ろしく貧しい国だそうである。でも幸福とか楽しさというのは、数字では測れないということをつくづく思った。日本とのその差は何だろうと考えて、田舎というものへの価値観の違いだと推測した。  ブータンの特徴は国が小さいこと、議会と並んで王制があること、ある程度の鎖国政策をとっていること。  これはつまり、意識して田舎を創り、その田舎を護っているということである。  鎖国というのは、観光客の制限やテレビ放送の制限その他、外国の異文化の流入を厳しく警戒していること。それはしかし国の小ささと、ここの国王の人格によるたまもので、日本ではムリだ。日本はやはりブータンに比べたら相当大きいし、それに偉大な人格者というのがいない。いまはとにかく絶対民主主義国家となっていて、人権は問題となっても、人格は問題とならない。人権には異常なほど目を光らせるけど、人格のことは無視である。  いや、田舎力という言葉からつい横滑りしたが、老人力がテーマであれば、やはり田舎について考えなければいけない。  田舎の定義はいろいろあろうが、田舎の対極にある都市と比べてみたら、田舎は自給自足率が高いということがいえるのではないか。  都市の場合はまず経済、つまりお金を通じてでないと動きがとれないし、それを別にしても、ガス、電気、水道、電話といった人工管理のネットワークに接しなければ生きていけない。  いまは田舎でもガス、水道、電気だろうが、しかしもともとはそんなもののないのが田舎だった。  そもそもは世界中が全部田舎だったわけで、それがもっと便利に、もっと効率よく、という勢いが集中して都市が生れる。だから都市というのは常に何か新しいものが生れる場所、人々の注目の集まる所で、田舎はむしろ注目されない場所となる。  そうやって中央的な目から見放されていても田舎はちゃんと存在している。都市に比べたらはるかに自給自足の力を持っている。というより、そうするほかはないのだから、いやおうなく自給自足の力を発揮することになるのだ。  という都市と田舎という空間軸を時間軸に置き替えてみれば、若者は都市であり、老人は田舎なのである。中年は、都市近郊のベッドタウンか。  いずれにしろ現役的な都市からは注目されない、いわば見放されているのが老人地帯だ。見放されている、という言葉がきついという感情論もあるだろうが、構造的にはそういうことである。もちろん人間社会であるから、社会保障や何か、見放してはいませんよ、暖かく見守っているんですよ、という措置は講じられている。でもここでいっているのはそういう表向きのことではなくて、その人の中味の問題というか、人生の問題である。  老人は現役を離れている。だけど人生はある。それはもちろんのことだが、現役時代よりも人生が肉迫してくる。むしろ人生しかないというか、生産性を離れてあらわれてくる自分の人生を、どうやって楽しむか、どうやって喜ぶかということに重心が移ってくるわけで、それはいわば自給自足的な田舎の力を持つことではないだろうか。それを田舎の力として自覚することではないだろうか。  老後を田舎でひっそり暮す、というのはむしろ二重の表現になるわけで、現実の田舎が徐々に都市化していっているこんにち、都市の中で田舎暮しをしていく、それが老人力というものだろう。      *  田舎力なんて思いついたのはいいが、ちょっと理屈っぽくなってきた。原稿がなかなか進まない。      *  今日はNHKの老人力取材で谷中の町を歩いた。大晦日《おおみそか》の夜に、恒例の除夜の鐘めぐりがあり、それにつづく番組で老人力である。世の中こういうことになってくるのだ。  ねじめ正一さんがこの年何かと話題を含んだ人とトークする番組で、この年(一九九八年)引退した落合博満氏、この年芥川賞の花村萬月氏、そしてこの年老人力のぼく。というわけで、ぼくのトークの間の挿入シーンで谷中を歩いたのである。 (画像省略)  そこでまた発見があった。老人力は芸術である……。  テーマとしては町に老人力を探すということなんだけど、これは難しいですよ。テレビだから物として見せねばならないわけで、物忘れ、ボケ味、アバウト、よいよい、溜息、といったものをどういう物として摘出するか。  結局は路上観察みたいになるわけで、路上観察から生れた老人力が、その探索でまた路上観察というのは、まあ当然の帰結である。  TV当局が谷中を選んだのは、老人力の町ということで、まあたしかにそうだ。ここはうまく戦災をすり抜け、古い町並が残っている。ぼくも路上観察で何度か歩いたことがある。ねじめさんと歩くのははじめてで、あれこれ路上の妙なものを見つけては冗談を交し、楽しかった。  相手がねじめさんだからしゃべりやすい。こちらは何も考えずにすむ。しゃべる以上は何か無意識にも考えているのだろうが、古びた、妙な、いじましい物件を見つけてはあれこれ笑った。老人力というのはいわば現役を離れた世界の力学で、離れたところで何ごとかやっていることが何かしら味わい深い。 「これはもう芸術ですね」  と言ってしまった。言ってから、あ、そうだと思った。芸術というのは、もともと現役を離れている。生産性を離れている。せっせと働く世の中からすると、本当はまったくの役立たずのもので、だけど何ごとか、別の方面でせっせとやっているのが芸術である。  そうだ、まったくそうだよ。政治経済の世界から見れば、芸術なんてボケ味というか、よいよいというか、モーロクというか、徘徊老人というか、そういうものではないか。  具体的には路上のどういう物を見てその話になったのか、いまちょっと忘れている。当日のテレビにはいろいろ映っていると思うが、とにかく谷中のごく狭い路地を歩いていた。表通りから引っ込んだ、住民以外にまず人通りのないような路地だから、狭いけど、本当に静かでのんびりしている。家並や、垣根や、玄関先に並ぶ植木鉢の群れなど、一見古くなって捨てる寸前のように見えるものが、丁寧に並んでいる。植木が風で倒れないように細い紐で縛ってあるのが、台風のたびにやったのか、色とりどりの、材質もいろいろの荷造り紐で、結び方がぞんざいだけど、そのやり方の積み重ねはじつに丁寧で、そこまでやってもしょうがないよ、というところを心ゆくまでやっているのは、正に老人力でもあり、芸術でもある。  そうか、老人力は結局は芸術に重なるのか、と思って感慨無量だった。  老人力は田舎の力だ。しかも芸術である。そうすると田舎は芸術であるのか。  いや、道を急いじゃいけない。芸術なんてどうせ逃げやしない。田舎もまた然り。回りとの保護色使いの名人だから、一見見えなくなるが、見えないだけでじーっと潜んでいる。  しかし先ほど、老人力は田舎の力だというその田舎という言葉が嫌だと感じた人は、老人力は芸術であるとなった場合、どうなんだろうか。まあそれは素敵、となるなら、まあそれに越したことはない。  路上観察をはじめたころから見ているもので、谷中の三崎坂《さんさきざか》に、路上植物園といわれるものの大物がある。永久寺というお寺の前の歩道にずらりと、二十メートルくらいの長さにわたって並んでいて、ちゃんとした植木鉢はなくてみんな発泡スチロールの箱や、鍋、釜、ヤカン、そういった廃物の容器に、植えてあるのがいわゆるお花類ではなくて雑草が多い。それもただ雑草を生やしたというより、一種類ずつ植えてある感じ。一つ一つに説明書きがあり、川柳も添えてあったりして、 「飼主の人格を知る犬の糞」  などというのはしっかり覚えている。一見乱雑みたいだけど、しゃれているなあと思っていた。さらに見ると境内に一円玉を光背とするお地蔵様があり、経済の根本の一円玉を大切にしようという立札もあって、そうか、あえて廃物容器に雑草というのもそういう万物の根本という考えに繋がるのか、ユニークな考えのご住職だなと感じていた。そこを久し振りに歩いたのだけど、川柳などの立札類が消えて、妙に綺麗に、静かになっている。  今回はNHKなので、そのお寺の中まで、カメラが入る。お訪ねすると、その先代のご住職様は二年前に八十六歳で亡くなられたそうだ。  そうだったのか。何か違うと思った。やっぱりそうか。お話をうかがうと、ぼくたちがそれを見ながら想像した通りの方だったようで、まことに残念である。 [#改ページ] [#1字下げ]外房の離れ小島の老人力[#「外房の離れ小島の老人力」はゴシック体]  去年(一九九八年)は千葉県の外房の小さな島で、老人力を見た。  本当に小さな島で、太海《ふとみ》の港から櫓《ろ》のついた手漕ぎの舟に乗せてもらって渡る。距離はそんなになくて、泳ぎに自信のある人なら裸で渡れるくらいだが、そうもいかない。  どう小さいかというと、島の住居は一軒だけなのだ。大昔に平野仁右衛門という人が住みついて、以後その末裔《まつえい》だけしか住んでいない。  それがどうした、と思われるかもしれないが、そこには日蓮上人とか、源頼朝とか、歴史上の人物がいろいろと来ていて、とにかく相当いわれのある島らしい。  ぼくはぜんぜん知らなかった。でもあとで家に帰って地図を見ると、ちゃんと仁右衛門島と出ている。その地図では輪郭の描きようもない、点にもならないほど小さな島なのに、ちゃんと海のところに名前が出ているというのは、面積が小さくてもいわれが大きいのだろう。  何故そんなところへ行ったかというと、その太海という小さな港町の旅館に用があったのだ。江澤館といって、その昔その二階の部屋に安井曾太郎が逗留して、窓から見える「外房風景」という大作を描いたという。  じつは雑誌「日経アート」の仕事で、日本美術史の山下裕二さんとの対談である。まず横浜そごうデパートでの安井曾太郎展を見て、それから千葉の旅館のその部屋で対談というフルコース。  東京湾アクアラインという、まだ出来たばかりの海上道路を車でぐんぐん飛ばして、千葉県の陸地に着いてからもぐんぐん飛ばして、房総半島を横切り太平洋側に出る。途中から夜になり、夜も深まり、いつの間にか海沿いの真っ暗な道に入り込み、ぐんぐん飛ばしていたのがとぼとぼという感じになったところで、やっとたどり着いた。  安井が来たのはもう戦前も昭和六年のことで、電話でその旅館を確かめてはいたものの、果してちゃんとあるかどうか半信半疑だった。あったとしてもつげ義春の「リアリズムの宿」じゃないが、相当うらぶれたものではないのかと想像していた。それがちゃんとあった。 「あった」  と思ったときにはいきなり日本髪が見えてびっくりした。年配の女将《おかみ》が和服に日本髪を結って待ち受けている。おやおやと思って上がると、ざっくばらんな帳場の板の間には色紙がたくさん並んでいるのでまたびっくりした。いや、色紙ぐらいどんな旅館にも飾ってあるものだが、そういう名刺代りのものではなくて、みんな絵である。それもしっかり額入りでずらり。それも既製品の額ではなくて、横に十枚ずつ並ぶくらいの、要するに梯子を横にしたようなのが材木手作りでペンキを塗って出来ていて、その枠ごとにガラスが入って一点ずつ、それぞれにネームプレートがついている。それがあっちの壁にもこっちの壁にも。おやおや、と思って見ていくと、野口弥太郎、向井潤吉、鈴木信太郎、野間仁根……。  びっくりした。知る人ぞ知るかもしれないが、これは相当な顔ぶれである。凄い。何だこの旅館は。  ずいぶん絵描きさんが来てるんですねえ、と訊くと、はい、今日も絵描きさんで満室です、という女将の答え。ええ? そんな世界があるんだ?!  もともと風景画家がよく来る場所柄で、安井曾太郎はその一人ということらしい。はじめは旅館じゃなかったけど、あんまり絵描きさんが来るんで旅館にして、それがそのまま繁昌しているらしい。  だから色紙にしても、自慢して飾るというより、絵描きさんが泊るたびに増えたので、まあしょうがないから連続の額を手作りしましたという感じで、じつに素朴で贅沢である。旅館は適当に古くて、シャレてモダンというわけにはいかないけど、といって世界遺産と気取るほど上等に古いわけでもなくて、壊れたところはちゃんと手を入れて、トイレはちゃんと水洗に変えてという具合に、現役感があふれている。  魚がまたうまかった。やはり千葉の外房だ。シャレてはいないが実質充分。朝食にもハムなんて出てこない。これは旅館を評するときの一つの尺度で、ホテルならともかく旅館の味噌汁の横に安っぽいハムがあると、 (ああねえ……)  と思ってしまう。こういった査定は人それぞれで、夕食の鍋物のコンロの固形燃料を見てがっかりする人もいる。ぼくだってあの安易さは好きじゃないけど、でも庶民値段の場合は致し方のないことで、情状酌量の余地はある。  明くる朝カメラを手に外に出てみると、看板にはちゃんと「画家ゆかりの宿 江澤館」と出ていて、ぼくだって画家のはしくれで、それが端から端へときてるわけだが、しかしこんな風な世界があるとはまるで知らなかった。  さてしかしいちおう仕事は終えて、余った時間どこをぶらつこうかと、先述の仁右衛門島へ行ったのである。宿の人に、すぐそこから渡し舟が出てますよといわれて、見ると海水をわずかに隔てた向いの島に「仁右衛門島」という大看板が見える。観光の島か、まあほかに行く所もなさそうだから行ってみるかと舟に乗った。  櫓を漕いで進む舟なんて久し振りで、乗るとやはりゆらゆらと気分が和む。すぐ島に着いて、さてと歩き出したら、これがなかなかいいのだ。何がいいのかと考えてみると、手入れがいいんですね。こつこつと、毎日少しずつ手入れした感じがにじみ出ている。  島全体が岩あり海ありの庭園みたいなもので、細い道のあちこちに小さな木や草花が、ちゃんと面倒を見てもらいながら、ちょっとした説明書きがあったりする。観光地ならそんなの当り前だというだろうが、何というのか、何かいいんですね。  公共の公園を整備するというと、ばっと予算を取って、短期間にばばっと整備して、とにかく恰好はつけましたという他人事みたいなことになりがちだが、それとはぜんぜん違う。予算とかの世界じゃないんですね。とにかく島ではあるけど個人のお庭を歩いているという感じで、じつに気持が和むのだった。  どうも仁右衛門さんというのが文人というか画人というか、そういう趣味があってこの島に住みついたみたいだ。その大昔の住居がいまは史蹟として残されていて、庭あり池ありで、建物も質素ながら風格がある。なるほど、と思った。それでいろんな人が訪れたりもしたらしい。  細い道のあちこちに小さな句碑が立っていて、いろんな俳人がこの地で詠んだものである。ふと見ると、 「あるときは 船より高き 卯浪かな」  あ、鈴木真砂女さんだ。銀座の一丁目の辺りで飲み屋、いや小料理屋をやっている。その店の名前が卯波。前にそのいわれを聞いたら、この句の話をしてくれたんだ。娘時代に田舎から駆け落ちして東京に出たとか、そうか、この島じゃないにしても、千葉のこの辺りだったのか。  真砂女さんのお店は銀座の路地裏みたいなところにあって、いつも満員である。真砂女さんはいまも朝は築地で仕入れをしてお店に出ている。もう九十を超えている。ぼくはよく知らないけど日本の俳壇の、いわば殿堂入りの人なんだそうだ。でも俳句を取るかお店を取るかといわれたら、私は迷わずお店だ、という談話があって、ぼくはじつに共感した。本当に大事なのはオマケでいいんだ。本当に大事なのは毎日の生活の仕事なんだ。あれ? ちょっと言葉が入れ違ったが、とにかくそういうことだ。  なるほどなるほど、と思って歩いていくと、いろいろな俳句がある。水原秋桜子とか、芭蕉もある。松尾芭蕉はぼくだって知っている。まあそういうそうそうたる顔ぶれの句が、ぽそり、ぽそりと道端に立つ感じは、先の江澤館の色紙にも似ていて、とにかくいっぱい溜ったので並べたという、素朴で贅沢な感じ。  ふーん、と思って歩きながら、またしばらく行って、次の句があった。 「初渚《はつなぎさ》 ふみて齢《よわい》を 愛《あい》しけり」  これにぼくは参ってしまった。初渚、踏みて齢を、愛しけり。うーん、これは凄い。名前のところには、 「九十四|叟《そう》 風生《ふうせい》」  とある。そうか、この句からして、九十四歳ということだろう。風生、あとで絵ハガキで見たところでは富安風生という人らしい。  初渚 ふみて齢を 愛しけり  というわけで、やっとテーマにつながった。ここまで長々と書いてきたけど、つまりはこの句のことをいいたかったのだ。これが老人力でなくて何であろうか。 (画像省略)  初渚というから、おそらく正月。昔はみんな数え歳だから、このとき風生さんは九十四歳になったのだろう。その足で渚を踏み歩く、何だかその九十四歳の足の裏の感触まで伝わってくるみたいだ。  齢を愛しけり。これがまた、老人力ですねえ。九十四歳の、その中からの言葉というか、まるで衣服のように、九十四歳というものを着て、それで正月の朝、渚を踏んで歩いている。  齢というのは体に染み込んだ時間のことだ。いやその体そのもののことか。それを愛すという言葉は凄い。  ぼくは俳句のことはわからないけど、老人力のことならわかる。  でも俳句なんて不思議なものだと思う。この句の感覚は、九十四歳にして詠んだこの人本人にしかわからない。ということが、この句を読んでわかるのである。その意味が柔らかく伝わってきて理解はできるけど、理解以上のことにはなりにくい。この人が着用している九十四歳という衣服の違いがどうしてもあるわけで、ぼくの衣服なんてまだ薄いというか、いや逆に分厚いというか、そうだ、九十四歳ともなると、衣服としてはさらさらの、透けて見える絹みたいな、そういうものになっているのではなかろうか。  仁右衛門島なんてあることも知らず、江澤館だってそういうところだとは知らずに来て、何だか凄くトクした気分になった。  家に帰ってからもずうっとその句が頭に残っている。こういうことは複雑なのに忘れないから不思議だ。財布とか眼鏡とかは忘れるのに。  でもやはり少し忘れた。今回この文を書こうとして頭の中で反芻しながら、まずうっすらと忘れていたのは「ふみて」だった。「初渚」と「齢を愛しけり」は覚えている。でも五七五だから、もう一つ、間に、何だっけ、と思い出そうとしていたら「ふみて」という語が復帰してきた。そうだ、正月の渚を踏んで歩いてたんだ。  考えてみれば、この「踏む」というのはこの句のいちばん重要な部分じゃないだろうか。五七五しかないんだからどの言葉だって重要だけど、初渚と齢を愛すは、はっきり取り出せる意味があるから、忘れないという気がする。でも踏むということの意味は取り出しにくい。だからまず最初にうっすらと忘れたのではないだろうか。  でもその取り出しにくい意味がここではいちばん重要なのだった。いちばんの接点というか、ソケットの先端というか、そこが接したところでこの句の中の老人力が動きはじめる。  ソケットを入れて老人力が動くと、どうなるんだろう。そんなことインタビューで訊かれても答えようがないが、老人力という力である以上は動くはずだ。そう考えた方が、老人力みたいなひねくれた力の場合は考えやすいのである。  正月の朝、渚を踏む足のソケットが通じて、老人力が動きはじめる。前に動くのか後ろに動くのか、興味をそそる問題である。 [#改ページ] [#1字下げ]老人力という言葉の乱れ[#「老人力という言葉の乱れ」はゴシック体]  日本語の乱れが問題となっている。  いっぽう、老人力という言葉の乱れも問題となっている。  いや問題にまではまだなっていないが、問題になりかけている。あらかじめ予想した通りのことで、老人力というのを、いわゆる老人パワーというか、老人の持っている物理的なエネルギー量と解して使っている例。 「まだまだ若いものには負けませんよ」 「まだまだこのくらいの荷物は持てますよ」 「まだまだ徹夜は平気ですよ」 「まだまだ酒一升は飲めますよ」  というような、まだまだで始まるいわゆる老人の単純な頑張り力に、老人力という言葉を当てている例。  もちろん、歳をとってなお元気百倍、筋肉リュウリュウ、欲望ギラギラというのは結構なことである。いやホント。でもちょっと引いて考えてみて、そういう第一次産業的な力はいずれ衰えてくるもので、そこで、 「いいや衰えない!」  といって抵抗するかわりに、 「これは衰えじゃなくて、力の変化なんだ」  と考えるのが老人力で、それは第二次産業的な力というか、いや第三次か四次かわからないけど、そんなようなニュアンスのことなのである。  何だか言葉の解釈を煙に巻いているように思われるかもしれないが、そのつもりはない。老人力という言葉をめぐっては、どうしても煙が出てきてしまうのだ。強引に風を送れば、ぱっと酸素に目覚めて火がつくのだけど、またそれがいつの間にか煙に変って、まあそういう意味合いの言葉なのである。  でもこういう言葉の論理は、急ぐ世界ではなかなかその力を全うできないもので、テレビなどで老人力の番組を作ると、必ず「まだまだ」で始まるような老人力の解釈がちらりとのぞく。テレビは常に急ぐ世界だ。ゴーゴーを踊るご老人とか、ボクシングをつづけるご老人とか、急ぐとすぐそういう画面が出てきてしまう。もちろんゴーゴーもボクシングも結構だけど、それはあえて老人力という新語を使うまでもないことなのだ。  老人力という考えは、じつはその言葉を使う人の頭の冒険である。その冒険のない人は、老人力をそのまま「まだまだ」つきの若者力に重ねてしまう。冒険というのは崖を登ったり、河を渡ったりするリポビタンDがわかりやすいものとしてあるが、むしろ難しくてスリルのあるのは、頭の中の、考え方の冒険である。老人力という言葉をめぐっては、頭の中の冒険家とそうでない人との好みがあらわれて面白い。冒険は外見だけではないのだ。一見もの静かなご老人の頭の中で、実は大変な冒険がおこなわれている。  週刊誌の人が老人力という言葉の誤用問題でやってきた。どうも最近、老人力という言葉が世に広まったのはいいけど、間違った意味に使われているのがあるんじゃないか、その点、お家元としてはどうお考えですか、というご質問である。  図書館だったかコンピューターだったか、とにかく何かで資料を調べたらしい。最近の新聞雑誌の中から老人力という言葉の使われている記事の束を持ってきている。あるなあ、と思った。自分で見た記事もあるし、見てないのもずいぶんある。こんなにあったの? と思うと同時に、よくこれだけ集めたものだと感心した。  でもいまはコンピューターのお蔭で案外と検出しやすいのだそうだ。逆引き辞典と同じで「老人力」という言葉の出てくる記事というのでボタンをポンとやると、ずらずらっと出てくるらしい。ぼくらは文明社会に住んでいるんだ。  とにかく老人力という言葉だけはたくさん使われている。特集のタイトル、コラム、投稿の川柳、ちょっとした記事のまとめの言葉などに、じつにたくさん使われているので驚いた。  でもそのほとんどが、いわゆる誤用である。政治の世界で年寄代議士が権威を示したとか、音楽会で老人とは思えぬパワーで歌を歌ったとか、とにかくお年寄りが何かちょっと力のいることをやったというのを、 「さすが老人力!」  とかいう言葉でまとめているのが多く、うーん、ちょっとねえ、と思ったが、しかしあまりにそういう用例が多いので、こちらとしては、 (まあいいか……)  である。いくつか用例をあげようと思ったが、それをやってみてもどうも実りがなさそうだ。面白いことになりそうもない。 「しかしどうですか。これだけ誤用例があふれていて、お家元としては……」  とその週刊誌の記者は何とかそれを正そうという姿勢だ。それはまことに結構である。でも正して正せるような相手か。いや相手といっても一人じゃなく、全国にくまなく漂うガスみたいなもので、考えてしまった。 「でも本当に凄いですね。もうみんな、ここへ来るときもですね、駅のガード下でおじさんが二人�いやあ参ったね、もう老人力がついちゃって�なんて笑いながら話しているのが聞こえて……」  記者にそう言われたとき、何故かピンときた。そうか、ふだんの個人単位の会話では、老人力という言葉は冗談的なニュアンスも引っくるめて、みんなちゃんと感じ取って使っているんだ。それがしかし公式的なメディアになると、どうしてもニュアンスなんて抜け落ちてしまい、言葉が骨抜きになり、いわゆる「まだまだ」ではじまる単なる老人パワーの言葉として誤用される。  なるほど。  新聞や雑誌、テレビというのは、公式の場所である。仮りにくだけた様子を装っていても、それは公式のくだけである。変な言葉だが、つまりホンネではない。タテマエ的なものだ。そういうメディア上で老人力という言葉が使われると、多くの場合が「まだまだ」的に誤用される。じっさいに歌ったり踊ったりしているご老人が、自分はただ自分の老人力を楽しんでいるとしても、それが記事となるときに、公式の力が作用して「まだまだ」的な老人パワーとしてまとめられてしまうのだ。だからあくまでこれは、記事を書く側の問題である。そのメディアのセンスが問われるわけだが、まずほとんどがセンスなし。  まあ公式のメディアとはそういうものだ。いや、それだけではないぞ。これは新聞雑誌に限らず、それぞれ個人の頭の中でも、公式的言葉と雑談的言葉、いわゆるホンネとタテマエとがシノギを削っている。だから頭の中が公式寄りに出来ている人は、老人力というのを「まだまだ」的パワーとして使っているに違いない。  なるほど。言葉というのはただの固い道具ではなく、いわば有機的な柔らかい道具だから、人によって使い方が変る。つまりこの言葉の使われ方によってその人がわかるのだった。  で、目の前には週刊誌の記者。この老人力という言葉の誤用問題を記事にしてくれるというのだけど、それはしかし氷山の一角という感じがして、端から正していっても、何だか徒労に終る気がする。間違いは正すにこしたことはないが、 「どう思いますか」  と訊かれて、 「うーん、まあ言葉は誤用も含めて使われるというのが、宿命なのかもしれませんね」  と言うしかなかった。  言葉はキャッチボールされてこそ言葉なのだから、言語規定は必要ではあっても、それがすべてではない。 (画像省略)  そういえばグレン宇宙飛行士の件もある。七十七歳で宇宙を飛ぶというので、新聞では例によって「史上最高齢の宇宙飛行士——米国版�老人力�の発揮」といった形の記事が出ていた。でもグレンさんが宇宙へ飛んで、本当に老人力を発揮したら大変である。コックピットでいろんなボタンやダイヤル類を操作しながら、 「えーと、どれだっけ……」  ということになり、宵越しの情報は持たない主義で、 「まあいいか……」  となると、いったいどういう結末が待っているのか。と問い詰めるつもりはないけど、少くとも宇宙飛行士に老人力はムリな用例であり、何ごとも時と場合があるのだ。本当は。  まあそんなことを仲間と話していたが、グレン氏は無事宇宙から帰還した。ところが記者会見で「老人力」の話題が出たそうだ。たとえば朝日新聞によると、  ——グレンさんは「日本ではいま『老人力』ということばが流行していますが、どう思いますか」との質問に、「記憶はしっかりしていると思いたい。若い人と同じようにまだまだ野心も夢もあります」と答えた。  というわけで、他の各紙もニュアンスの上では大同小異で、ぼくとしては、そりゃあ宇宙飛行士で、しかもアメリカ人だし、老人力なんて通じないよ、と納得していた。  ところが実情はそうでもないのだ。じつはその質問を発した記者の方から資料とお手紙をいただいた。その文面にグレンさんの人柄がしのばれて、ニュアンスが新聞記事とはずいぶん違うのだ。これは大変有意義なので、送っていただいた速記録から抜粋する。  ——H記者「グレンさんのご活躍は、日本の二千万人のお年寄に大きな勇気と希望と共感を与えました。そこでグレンさんに質問いたします。一つはグレンさんの長生きと健康の秘訣をくわしく教えて下さい。二つは、いま日本では『老人力』という言葉がはやっています。これは物忘れ、財布を忘れたとか、人の名前を度忘れしたとかいう時、日本語では『ボケ』と言いますが、この『ボケ』の代りに『老人力』という言葉を使うことがヒットしています。そこで失礼ですが、グレンさんには、この『老人力』がありましょうか?」  グレン(笑いながら)「覚えておりません!」〔I can't remember〕(しばらくして、同席の宇宙飛行士六人から爆笑、拍手が沸き上がり、これにつられて、場内からも爆笑と拍手の渦) 「二つ目の質問からお答えします。少なくとも、私としては記憶力はしっかりしていると思いたいと、思っております。そして、いろいろな面できちんと機能はできていると……。年齢は重ねているけれども、きちんと機能できていると、考えたいと、思っています」  ぼくはこれを読んで、新聞記事とはずいぶん違うと思った。否定的ニュアンスはまるでない。Hさんもお手紙で、おそらく否定するだろう……、と思ったと書いている。でも回答のあとの場内爆笑は大変なものだったようで、Hさんのお手紙には「アメリカ人らしいジョークです。(略)ただし完全否定ではなく、微妙な表現です」と書いておられて、その通りだと思った。何だか嬉しいことである。ぼくの頭の中のアメリカ人という図式では、老人力という言葉が通じにくい。でも「アメリカ的ジョーク」というような、何か別の横道からの流通が可能なのかもしれない。  やっぱり現場でなければわからないと痛感した。このあとも速記録(同時通訳の日本語)はかなり綿密につづき、グレンさんは歳をとっていく過程での気持の持ち方などに、誠実に回答している。そこには確かに微妙なニュアンスがあって、老人力にも繋がる毛細血管みたいなものが、ちらちらと見えるのである。新聞記事ではそのすべてを数行の記事にまとめるわけで、どうしてもニュアンスが落ちていく。そうやって公式の場での言葉解釈が出来ていくわけで、それはまあ致し方のないことである。だからそれはそういうものとして、受取る必要がある。公式の言葉はあくまで儀礼として受けとめるにとどめて、陰で自分のホンネの言葉をしっかり養育していくことである。 [#改ページ] [#1字下げ]飲む食う書くの日記[#「飲む食う書くの日記」はゴシック体] [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  一月三十一日(日)[#「一月三十一日(日)」はゴシック体]  ピンポ〜ン、というので玄関に出て、ハンコをついて受取った宅急便が、何となくほど良い重さである。テープの貼り方も手作りふうで、何かちょっとわくわくする。開けてみると、チェキ。フジフイルムの小型インスタントカメラ。差出人はH部さん。うわァ、本当に送ってきた。この人は何故か最近新発売のこのカメラを異常に絶賛している。たしかに写りはいい。しかも一万円以下。それじゃあぼくも買ってみよう、と思ったけど、あちこち品切れ。人気商品なのだ。H部さんは、それじゃあ探して買って必ず送るから、といっていたのが実現したのだ。  午後本誌(「文藝春秋」)より電話でこの日記の原稿を依頼さる。夜、妻と町田に新しく出来たヨドバシカメラに行ってみる。でかい店だ。コシナが新しく出したフォクトレンダー印のマニュアルカメラを見せてもらう。広角レンズ専用のユニークなカメラで、いずれ買いたい。買うだろう。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  二月一日(月)[#「二月一日(月)」はゴシック体]  昼過ぎ上野の森美術館で会報に載せる作家インタビューを受ける。そのあと歩いて谷中のスカイ ザ バスハウスという銭湯を改造した画廊に行き、作品と資料の整理。三年前に名古屋市美術館でやった個展の返還品。二年間トランクルームに入れっ放しだった。作品だけでなく、作品以前の素材や資料が無数にある。新居設計で世話になったO島Aさんが手伝ってくれる。手伝うというより、O島さんの指揮のもとに現在屋根裏資料の大整理中で、気が重い。でもやらねばならぬ。  やらねばならぬが、ときどき仕事部屋の整理をしながら、仕事がつづく限り、整理なんて完成しないと思う。本当は整理整頓が完成して、仕事に必要な物がぱっと出るようになるのが理想だけど、おそらくそうなったときには仕事がなくなっているような気がする。その状態は寂しいだろうな。だからまあ整理が間に合わずに不便しているのがハナで、ものごとの経緯には必ず皮肉がつきまとうことは、これまでの人生で経験している。でもやはり整理はしなければ。  夜くたくたでタクシーで帰り、妻に、 「馬場さんが亡くなったのね」  といわれて驚く。まさかと思う。ジャイアント馬場がこんなに早く逝ってしまうとは。近年一度だけ対談してもらったときの不思議な感動が忘れられない。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  二月二日(火)[#「二月二日(火)」はゴシック体]  家でぼんやり仕事をする。内容失念。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  二月三日(水)[#「二月三日(水)」はゴシック体]  午後、有料老人ホーム協会の関係者が講演会の打合せに来る。テーマは「老人力」だ。こんなことになるとは。  夕方、犬の散歩を早めにすませて、妻と町に出てガスストーブを買う。家には温水循環暖房とエアコンがあってもう二年目だけど、やはり赤い火が欲しいという理由。ガスにしろ灯油にしろ、赤いローテクの火の見えるストーブは、いまは店頭にわずかしかない。  どうも何ごとも一方向に流れ過ぎる。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  二月四日(木)[#「二月四日(木)」はゴシック体]  渋谷東武ホテルで雑誌「D・ヴィンチ」のインタビューを受ける。もうじき出る『中古カメラあれも欲しいこれも欲しい』(筑摩書房)を中心に「老人力」のことも。この『中古カメラ……』はこの間装幀の色校をちらっと見たけど、凄くいい。デザインは田淵裕一さん。この人も中古カメラウィルスにはしっかり感染していて、やはり仕事にも「患者」としての濃密さがにじみ出ている。  前作の中古カメラ第一弾『ちょっと触っていいですか』は図版で失敗した。校正のとき文字はしっかり見たが、図版はいずれ後でということで、いずれ、いずれというのが結局おまかせになり、仕上りがぼくとしては大不満だったことを反省し、今回は信頼関係は無視して、図版の仕上りについてうるさいほど警告を発した。画集や写真集の場合はもちろん図版の仕上りに神経を集中する。でも文字と図版の本となると、どうしても文字をまず第一とすることが、自分にしてもあったのだ。  インタビューのあと、下のティールームで「Aサヒカメラ」E藤氏に会い、連載用の「素材」である35ミリスプリングカメラのビトー㈽を受取る。もらったわけではなくお借りするもの。一九五二年発売のフォクトレンダーの銘機。中古カメラ病の発病期に、蛇腹の35ミリではこれがベストだと、自分で結論して買う寸前まで行ったものだ。これをあれこれいじって、人物評みたいな気分でカメラ評を書き、人物画みたいな気分で鉛筆画を描き、フィルム一本試し撮りしてワンカット載せる。じつに有難い仕事で、中古カメラウィルス疾患のぼくの場合には、この仕事がかなり有効な治療法となっている。  そのあとロビーで日本某産党の人と会って、インタビューのために別の喫茶店へ。テーマは例によって「老人力」。いままで老人力のことでいろんなメディアのインタビューを受けたが、某産党ははじめて。新聞じゃなくてそこのグラフ雑誌だけど。老人力もここまで来ましたか。でもこちらとしては老人力という言葉の能力がどこまでのものか興味があるので、その点で老人力インタビューはいつもスリリングである。  やっぱり政党新聞だけに、政治世界での老人力ということに話は行って、ぼくとしてははじめての体験で、ずるずると自分なりの論理が出てきて面白かった。その点はまあ活字にはならないだろうが、老人力というのは人生問題に多く関わる言葉なので、それと政治姿勢との繋がりを考える道筋はなかなか有意義であると思った。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  二月五日(金)[#「二月五日(金)」はゴシック体]  午前中に4チャンネルのテレビインタビュー。老人力。レポーターの人が何とか話をまとめようとするが、どうしてもそれに反発してしまう。反発というより、老人力ということについて真面目に答えようとするほど、話はまとまらない方向に広がっていくわけで、その繰り返し。レポーターも、テレビの性格上いつも話をまとめるのが使命なんだけど、これはまとめようがないんですねと、観念していた。それだけ理解したということだろう。後で編集が大変だろうと思う。  午後、スカイ ザ バスハウスで整理した作品と資料のダンボール箱が運び込まれる。とりあえず屋根裏に押し込む。いずれまた間引いて捨てる決断に迫られるのだ。  そのあとS学館のT山氏とN口君が打合せに来る。猫名画の本。古典から現代までの図版選びの修正。版権というのがばかにならない金額になるそうで、とくに現代のものはえらく高額。取捨選択をし直す。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  二月六日(土)[#「二月六日(土)」はゴシック体]  早くも計画が崩れた。この公開日記、その日のことはその日のうちに書けば簡単と思っていたのだが、一度怠けたらずるずると溜ってしまった。仕方なく手帖のスケジュールメモを頼りに追跡していく。  午前中「週刊B春」のインタビュー。世の中のいろんな間違いを「叱る」という特集だそうで、その一つで老人力問題ということ。  たしかにいわれるまでもなく、老人力という言葉はいろいろと間違った方向で使われている。その点について、まあしょうがないとは思うけど、いかがなものかということを、あれこれしゃべる。  午後「Aエラ」という雑誌の広告ページに載せる老人問題の提言のためのインタビュー。原稿は書くのが大変でインタビューなら、とついOKするのだけど、後で直しが大変だと思うと、あらかじめその気苦労が押し寄せてくる。話が理路整然とできる人なら、インタビューの方が楽に違いない。でもぼくの場合は理路整然とはいかず、話が毛細管みたいなところばかり通っていくので、その場では理解を得ても、文章に起すのが大変。ぼくだってそこで苦労しているんだから、他人が苦労しないわけがない。それでちゃんとニュアンスの伝わる結果になればいいけど、まずは難しい。ニュアンスというのは言葉の使い方でがらりと様相が変るので、そうなってしまってはモトもコもない。いままで談話を文章に起してもらって直さずにすんだなんてほとんどない。だから新聞のコメントなんて必ずゲラを見せてもらう。この点に関しては人間を信じてはいけない。  このことについてある女性作家も、 「やっぱり他人はダメね」  と言っていて、それは実感であった。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  二月七日(日)[#「二月七日(日)」はゴシック体]  ぼくは自由業とはいえやはり社会の会社とつき合って仕事をしているので、休日になると仕事のメモはない。この日何をしたんだろうか。原稿を書いていたんだろう。飯も食ったはずだ。ビールぐらい、ちょっとだけ飲んだはずだと思う。 (画像省略) [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  二月八日(月)[#「二月八日(月)」はゴシック体]  インタビュー。メモにはプロダクションの名前しか書いていない。プロダクションというのは星の数ほどあるから、ぜんぜん頭に入らない。おそらく何か雑誌の、テーマは老人力のことだったのだろう。  夕方ニナ(うちの犬)の散歩をしていて、向うから来る人の顔に(あれ?)と思う。人違いかもしれない。でもそうかもしれない。この辺りにお住まいだということだし……。ニナに引っ張られるふりをしながらもう一度その人の顔を見ると、やっぱりそうだ。目が合ってしまった。怪訝《けげん》な顔をしている。 「あのう……」  ふつうこういうときぼくからは声をかけにくいたちなのだけど、こちらが先に気がついてしまったので仕方がない。 「あの、森村さんですか?」 「ええ……」 「すみません、あの、赤瀬川です。トマソンの。前に森村さんの小説の中で触れられていた……」  その小説のタイトルはちょっと忘れたが、森村誠一のやはり推理小説の中に、谷町にあった無用のエントツのトマソン構造がキーワードとして書かれていて、それについてのおことわりの丁寧な手紙をいただいたことがあったのだ。もうずいぶん昔。  怪訝な顔がにっこりとなり、やはり森村誠一さんだった。ふだん着での散歩の途中のようで、ちょっとだけ立ち話。ニナが、はじめは吠えなかったけど、話がわからないものだからワンと吠えて、ワンワンと吠えだしたので、失礼する。  本当はその先、坂道を下ったところのガレージで、先発した買物の妻と落ち合うはずだったが、向うはもう歩いてきている。 「やっぱり……、どうもニナの声に似ているなあと思ったら、やっぱりねえ」  といっている。遠くで聞いていて、威嚇《いかく》というより、ちょっと甘え声で、ひょっとして紐を離れてはしゃいで、よその家にでも入ってしまって、ぼくが困ってるんじゃないかとか、そんな想像をしていたという。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  二月九日(火)[#「二月九日(火)」はゴシック体]  午後N経の人が出版の打合せ。N経新聞の日曜版に連載しているフォトエッセイの「奥の横道」が、考えたらもうじき二年になるのだ。それで単行本にまとめようということで、構成や判型のことなどあれこれ話し合う。  夕方銀座に出て、プランタンの一階にあるティールームで「Aミューズ」のO長さんに原稿を渡す。休暇をとってインドに行った話など聞く。凄いなあ、女性単身インドに一週間も行くなんて。ぼくなんかとても引込み思案でだめだ。 「でもみんなふつうの人たちでしたよ」  ということで、まあ行ける人にはそうなんだろう。  そのあと一丁目の酒と料理の、店の名前は忘れたが、その二階でH凡社のY岡さんたち三人組と打合せ。この三人組とは仕事で九州や沖縄にも行ったし、とにかく「打合せ」が楽しい。もちろんお酒でちょっと頭をほぐさないといい打合せはできないわけで、とてもいい。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  二月十日(水)[#「二月十日(水)」はゴシック体]  新横浜AM11:55のひかり225号に乗り込み、東京から乗車のK談社S部氏、カメラマンW辺氏と落ち合う。行先は名古屋。名古屋大学の環境医学研究所宇宙医学実験センター。宇宙酔いを研究している森滋夫教授を訪ねるのである。前にスペースシャトルに鯉を乗せて実験をした、あの先生。  以前「Qォーク」という科学雑誌に「科学のヒミツ」という連載をしていて、植物間のコミュニケーション、ヒヨコの雌雄鑑定、催眠療法、アフォーダンス、等々、ふだんなかなか接することのできない先端的な科学の分野をレポートしていた。ところがその雑誌が休刊となり、本にまとめるにはちょっと足りない。じゃああと少し追加取材をして、というわけである。  名大は広い。市の外れの丘陵地帯に低層の学舎が点在していて、じつにゆとりがある。さて、穏やかな先生だった。鯉の実験はもう終って、いまは人体実験だそうで、じつはぼくも体験することになっていて、それで今日はちょっと気が重い。ぼくは胃腸が弱いせいか昔はよく車酔いをしていて、そういう人間はちょっと神経質で、インテリの証拠かもしれないが、いや違うか。でも不安である。  まず酔いの構造についてお聞きした。耳の奥に三半規管というのがあって、身体の平衡感覚をつかさどっている。これは中学生のころに習っている。さてこの三半規管は身体の回転を感知するところで、身体の加速を感知するのはその横にある耳石である。というのはあらかじめ先生の著作を読んで勉強したのだけど、ぼくにはこのことが面白かった。耳石というのは小さな石みたいなもので、それが何本もの繊毛みたいなものに支えられて宙に浮いている。だから車に乗って加速したりするとゆらっと揺れて、その耳石の揺れを支える繊毛が感知して、脳にまで伝える。  カメラみたいだと思った。最近のカメラには横位置と縦位置を知るセンサーがあり、原理は同じようなものだ。  いけない。ここであまり詳しく書くと、本番で書くことがなくなる。本になる前に月刊「G代」に載せる予定。  でもこの研究室で話を聞いたあと、やっぱり実験室で宇宙酔いの実験装置に乗るはめになった。二十メートルほどのレールの上にリニアモーターの一人用のカプセルがある。この中に乗ってシートベルトを締め、目の前のお椀形スクリーンにはランダムドットの星空模様が動いている。で、ドアを閉められて、そのレールの上を行ったり来たりして揺さぶられる。まったく変な装置だ。カプセルを降りた駅のホームみたいなところには、ご丁寧にも洗面台が何個所かある。おえーっ、というときのものらしいが、ぼくは意外にもそのお世話にはならずにすんだ。まあだいたいはそういうものらしい。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  二月十一日(木)[#「二月十一日(木)」はゴシック体]  世間は祝日で休み。手帖にメモなし。何をしてたかは不明。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  二月十二日(金)[#「二月十二日(金)」はゴシック体]  K文社のA保さん来る。新しく出す本の打合せ。前に某誌に連載していたものをまとめる計画だけど、その原画やポジを探すのが大変。いっしょに屋根裏を探してもらう。この間の屋根裏整理のとき偶然にも一固まり出てきて、これでOKと思っていたが、よく調べたらまだ足りない。どこかにもう一固まりあるはず。一通り探してないとなれば、どこをどう探せばいいのか、ほとほと疲れる。ぼくはワリと整理好きの方なんだけど、途中で挫折するのが欠点。いったん忙しくて整理が挫折すると、あとはその手前で乱雑に積み上げることになり、何にもならない。中途半端な整理はかえって悪だ。  夕方、新宿曙橋の中華屋へ。筑摩書房の『中古カメラあれも欲しいこれも欲しい』が出来上がり、担当者と打上げ。曙橋という妙な場所の中華屋が指定され、すみません、奥の席が取れずカウンターになったんですけど、と担当のT見智佳子嬢にいわれる。曙橋で、中華で、カウンター……。これは何かヨホドの店なんだなという期待がふくらむ。同席は同嬢のほか、チェキを送ってくれたH部氏と、装幀の田淵裕一氏。四人だからまあカウンターでもいいんだけど、料理は案の定、なかなか凝った中華懐石とでもいうもの。中華だけど和風に近かった。  本の出来が最高。田淵氏の装幀がじつにいい。各章にあるカメライラストも、今回はしつこく警告を発しただけあってじつによろしい。前回の失敗がこれで報われた。こうなったら前回の本もこの方式でやり直して欲しいものだが。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  二月十三日(土)[#「二月十三日(土)」はゴシック体]  午後12チャンネルのテレビのインタビュー。同席はC摩書房取締役のM田哲夫氏。取締役だもんなあ、とひやかしてはいけないが、彼が学生のときからの付き合いなので、どうも何だか変なのである。いや、もちろんいいんですよ。でもやはり、昔の冗談が現実になるというのは変なものなのだ。でもこのたびは彼の担当で『老人力』が売れてしまって、芽出度いことであった。彼がC摩書房に入社したてのころ、はじめて作ってくれたぼくの本は『鏡の町皮膚の町』というのだった。二人とも凝り性なので、これでもかこれでもかと内容を充実させて、結果としてはちょぼちょぼしか売れなかったのを思い出す。あのときに二人とも、作る側のサービスが、受け手には必ずしも有難くはないんだということを思い知ったわけで、それからウン十年、久し振りに二人で作った本が売れてよかったよかった。  で、テレビカメラは二人を交互に狙って、例によって「老人力」の本のことと、それから本一般のことなど、本が売れる売れないという話など。その辺り、取締役はやはりちゃんとプロとしての話をしていた。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  二月十四日(日)[#「二月十四日(日)」はゴシック体] 「Cくま」連載「老人力のあけぼの」の原稿締切り。宇宙飛行士グレン氏の記者会見における「老人力」のやりとりのことなど書いた。かなりぎりぎりでH部さんの自宅へFAX。申し訳ない。 (画像省略) [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  二月十五日(月)[#「二月十五日(月)」はゴシック体]  手帖にメモなし。何したんだろう。ひょっとして買物か。このころ妻と町田まで出たことは確かだ。JR町田駅のいわゆる駅裏に、ヨドバシカメラのでかい店が出来ている。新宿のヨドバシよりでかいと聞いて、まさか町田にそんなのが出来るわけがない、出来てどうする、と思っていたのが、行ってみると本当にでかい。カメラコーナーは一部で、パソコン関係、家電製品、文房具、とにかくいろいろ広い。じつは駅の表側に新しくオープンしたパソコンショップが意外に人が少く、どうしたのかなと思っていたら、そのころ駅裏にこんなにでかいのが出来ていたんだ。でかいということは品揃えも豊富になるから、やはり行くとなればそちらに行くというのは、人間の心理。ではもっとでかいのが出来たらどうなんだろう。東京ドームくらいのパソコンショップが出来たらそちらへ行くかというと、やはりでか過ぎても疲れる。何ごとも限度がある。その限度はどの辺なのか。いまのところは駅の表よりは駅裏のでかい方が勝っている。たぶん土地が安い分でかいのが出来たんだ。パソコンや家電の世界というのは、品位は問題にされない。安ければいいというか、多ければいいというか、機能さえあれば上等の世界。だから駅裏が勝ったわけだ。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  二月十六日(火)[#「二月十六日(火)」はゴシック体]  昼前、家から妻とぶらぶら歩いて町田市立博物館へ。縄文・弥生の遺跡の出た丘の上の遺跡公園の中にある。のらくろの展覧会をやっているのだ。田河水泡さんはもう亡くなったが、晩年は町田の玉川学園に住んでいて、今年が生誕百周年。家からは三、四十分あるけど、のらくろだから、やはり歩いて行くに限る。  いい天気で、じつにのらくろ日和だ。ビトー㈽という蛇腹のカメラにフィルムを入れて持参。「Aサヒカメラ」連載のクラシックカメラレポートの試し撮りも兼ねているのだ。転んでもただでは起きないというか、ぶらぶら歩きでもただでは歩かないというか、考えたら自分の生活というのはあれこれみんな兼用で、多機能というか、貧乏性だなあとつくづく思う。でもカメラは好きだからしょうがないんだ。のらくろも好きだし、散歩も好きだし、だったらいいじゃないか。別に誰も悪いといっていないが、何だか気にしている。  のらくろ展は楽しかった。晩年の「のらくろのいる風景」という風景画のシリーズがとても良かった。近所や旅先で描いた風景画の中に、ひょいとのらくろがいる。そのタイミングが絶妙。もっと見たい。  午後銀座に出て、Wシントン靴店6FのティールームでS学館のT山氏とN口氏と会う。猫に関する画集の打合せ。  そのあと「Cラシックカメラ」のT沢君と連載のタイトルの打合せ。決まらず。内容もまだ決まっていない。(その後連載タイトルは�中古カメラ免疫療法�と決定)  INAXギャラリーのベンチでI波書店のK上さんと会い、一丁目の「岩戸」で打合せを肴に酒を飲む。いやじっさいに打合せ、文章読本じゃないけど、文章一般をめぐるあれこれの本を作ろうという話。途中からK上さん同僚のS水嬢も参加。東京の地酒の「吟雪」を飲む。これは二十年前に知らずに飲んでみたらウマかった日本酒。久し振りだ。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  二月十七日(水)[#「二月十七日(水)」はゴシック体]  千代田線代々木公園で降りてNHKへ。研修センターで「老人力」の講演だ。時間が時間なので夕食を、その前にどうせなら、というので向いの焼鳥屋さんで軽く。この担当の方とはN村證券のフォーラムで「路上観察」の講演をしたときお会いしている。世の中には知らないことがあるもので、N村證券内のスタジオで話をすると、独自のネットワークで全国の支店のモニターにそれが映る。NHKがそのお手伝いをしているのだ。  で、研修センターでの「老人力」。時間がそうはないのでスライドはなし。話だけというのは難しいもので、ぼくの話はときどき詰まる。詰まったら詰まったなりに、えーと……、と少し黙って考える。別にわざとやってるんじゃなくてそれが真実なんだから仕方がないのだ。ジャイアント馬場さんの話と長嶋茂雄さんの話をしたら、話の通じがよかった。やっぱり話はまず通じなければ仕方がない。話が通じる感じは気持がいい。聴衆がこちらを見ながら話を聞いていて、話の切り開かれていくところを目からウロコ的に考えていて、考えるあまり、こちらの顔を見ていながら見ていないというあの目つきには、ときどき感動する。不思議な瞬間である。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  二月十八日(木)[#「二月十八日(木)」はゴシック体]  朝十時に羽田のつもりがかなり早く着いたので、空港のレストランで朝食のあとこの原稿を書いたりする。月刊「T陽」編集部のM沢さんとカメラマンI藤さんとANAで米子空港へ。山陰温泉めぐりの取材旅行。もちろん原稿用紙と筆記道具は携帯している。隙あらば原稿を片付ける。でも夜はどうせ酒が入らぬわけにはいかないので、隙はないかもしれない。皆生《かいけ》温泉ひさご家に投宿。宿の若主人は以前尾道でのご馳走つきフォーラムでぼくの話を聞いたというので、え? と思った。  夕食は蟹づくし。山陰の冬となれば、ひたすら蟹だ。刺身、ボイル、鍋、といろいろあるが、ぼくは焼き蟹がいちばん好きだ。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  二月十九日(金)[#「二月十九日(金)」はゴシック体]  電車で城崎温泉の三木屋。荷物を置いて散策するが、この温泉地にはついこの間来ていたらしいことが判明。ぼくは記憶力がいいつもりだけど、すぐ忘れる。ちらちらと雨が降ってきて、バッグからカメラが出しにくい。山陰は曇天が有名で、雨も多いらしいが、ちょっと困る。同行のI藤カメラマンは自分でも雨男を自称していて、そういえばいっしょにロンドンに行ったときも、琵琶湖に行ったときも雨が降った。問題である。  夕食は蟹づくし。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  二月二十日(土)[#「二月二十日(土)」はゴシック体]  電車で移動。湯村温泉朝野家。ここはドラマの「夢千代日記」で有名なのだそうだが、ぼくは恥ずかしながらぜんぜん知らなかった。お城型のビルで、大きい。若い専務というのがいろいろ応対をしてくれて、気さくである。じつは会長が先生の『老人力』を読んでいまして、サインをというのでお部屋に置いておきましたから、といわれる。会長というのは要するに専務のお父さんなのだ。どうも美術の趣味があるようで、尾形光琳といわれる立派な屏風があったり、日本画がたくさん。エレベーターの壁にも日本画風のレリーフが工夫してある。  部屋は広くて机の上に硯と筆が用意してあり、その横にぼくの『老人力』。赤い表紙の右下に拇印くらいの大きさの白い斑点があり、何だろうと本を手に取って見る。じつはそこだけ指で摺り切れて、表紙の赤い色が剥げている。うーん、と唸ってしまった。こんなに読まれて嬉しいということもさることながら、おそらく自分の姿勢のきっちりとした、いわば職人肌の方なのではないか。試みにページをめくると、あちこちたくさん赤い線が引かれて、何だか申し訳ない気持になった。  夜、また蟹づくし。途中さらに若|女将《おかみ》からということで松葉蟹三尾大皿で。もうこれ以上食べられない、もったいないからというので、お下げしてもらうのが大変だった。  きのうからちらちらの雨がミゾレになり、雪になる。それもぜんぜんやまずに降りつづいて大雪の様相を呈す。雨男恐るべし。しかしカメラマンなのに、仕事はどうする。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  二月二十一日(日)[#「二月二十一日(日)」はゴシック体]  雪やまず。二時の鳥取発の飛行機はついに欠航。六時にもう一本あるが、それもどうなるかわからない。電車の陸路は、あれこれ乗り換えで七時間はかかる。六時の飛行機に賭けるか、それとも原稿を書きながら電車か。どうせ早く着いても原稿は書かねばならんのだからと、電車を選ぶ。(後で聞いたところでは、六時の便も欠航) [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  二月二十二日(月)[#「二月二十二日(月)」はゴシック体]  机の上に郵便物の山。でも開ける余裕はない。とはいえ「Aサヒカメラ」と「N本カメラ」だけ開けて見てしまう。まずは自分のページ。よしよし。  電車内で原稿類はいくつか消化したが、イラストや写真的なものはそうはいかぬ。きのう一晩カメラの細密イラストを描くつもりが大雪に潰され、さあ大変だ。明日からはカンヅメだから、カンの外でやれることはやっておかないといけない。電話は掛かるし、妻は機嫌が悪いし、こちらは蟹ばかり食っていたので文句はいえないし。でも原稿だけは誰も書いてはくれない。頭がキレそうになるところを、何でもない、焦らない、ダメならダメで、と自分にいい聞かせながら、目の前のことだけ考えて、一つずつ仕事を消化。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  二月二十三日(火)[#「二月二十三日(火)」はゴシック体]  午前中FAXで送れるものは送り、イラスト、写真類の速達封筒に切手をぺたぺた。衣類、原稿用紙、辞書、シェーバー、レッグウォーマー、いろいろ、また温泉旅行と同じバッグに詰める。駅前でポストに投函。  お茶の水、山の上ホテル。ロビーでいくつか原稿を渡しつつ、M日新聞のN上君と落ち合う。二泊三日のカンヅメ。書き下ろし『優柔不断術』の原稿書き。もう構想十年だ。湾岸戦争の前からだから、われながら優柔不断は恐ろしい。N上君と打合せのたびに盛り上がり過ぎて、もう書いたつもりになってしまって、その繰り返し。雑誌連載ならムリヤリにでも出来ていくけど、書き下ろしというのはなかなか。だからカンヅメはせめてもの決断と実行である。とはいえ貧乏性と優柔不断は我輩長年のテーマ、というだけでなく、日本人のテーマであり、これからの晩年の人類のテーマなのだ。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#1字下げ]背水の陣の目にかこまれて[#「背水の陣の目にかこまれて」はゴシック体]  老人力の伝道師のような生活が、いまもまだつづいている。大勢の人の前で講演をするわけである。むかしはそんなこと、とても出来なかった。三人とか五人くらいまではまだいいが、十人となるともう聴衆ということになり、緊張してだめだった。  聴衆というのは十人以上からだろうか。あとは百人も千人も一万人も変らないと思う。  でもやはり違うか。一万人といったら凄いだろうな。やはり迫力というものが生れる。十人とはやはり違うような気がする。  昔のニュース映画で、ナチスの大会でのヒトラーの演説がある。ベルリンの、何といったか、大競技場。あれは何十万人かじゃないだろうか。正面にカギ十字のマークの入った縦に長いノボリのような旗が三本垂れ下がっている、例の有名な大会である。ああいう物凄い聴衆ぎっしりの大マンモス競技場で、老人力の演説をしろといわれたら、どうすればいいんだろうか。  ぼくは気が弱いからすぐ人のいいなりになりかねないところがあり、断ったら叱られると思ってやってしまうかもしれない。 「えーと……あの……えーと……」  という老人力の演説を、百万の聴衆が一言も聞き漏らすまいと、聞き耳を立てている。物凄い迫力、物凄い気配でしょうね。 「まあ……ぼちぼち……」  という一声一声が、百万の聴衆の頭上に響きわたる。  ぼくがはじめて演説したのは、昔の桑沢デザイン研究所での「千円札裁判」の話だった。それまでにも大学の学園祭に呼ばれてシンポジウムに出席したりとかあったけど、一人での演説はそのときがはじめてだ。  いやその前にその「千円札裁判」での意見陳述というのがある。これは芸術裁判ということで、東京地裁の大法廷だった。傍聴席はほとんど満席に近く、あれは五十人くらいはいたんじゃないだろうか。  これは裁判だから嫌だというわけにもいかず、ぼくは結局文章を書いていって読み上げる形をとった。でも本当はその文章を外れて演説するつもりで、途中そうなりそうな気分が盛り上がってきたんだけど、結局は文章を読み上げるだけに終ってしまって残念だった。何だか未消化な気分でへとへとになった。 (画像省略)  その後美学校というところの講師をやらなければいけないことになり、それはスライド上映という方法をとり、講師紹介のあとすぐ明かりを消してもらって、難を逃れた。宮武外骨に関するスライドだったが、目の前に映像があって、暗くて顔を見られないとなると、まあ何とか話せた。  その後そこでクラスを持つことになり、いざ始まってみたら生徒が二十人くらいいるのである。四、五人なら何とか、と思っていたのが、れっきとした聴衆になってしまった。でもまあそれは教室での授業だから、まだいい。ちゃんとした演説にならなくても、何となくぐじゃぐじゃと、雑談の延長みたいなものでも埋められる。  だからやっぱり最初の演説は先述の桑沢デザインでのことで、これは全校単位のもので、百人か何百人かいたんじゃないだろうか。目が眩んだ。  同じ美学校講師の中村宏さんがそこの講師もしていて、その関係でぼくが頼まれ、断ったら叱られそうで引き受けたのだ。  本当は事前にアルコールをちょっと注入したかったが、その用意もなく、 「大丈夫だよ」  なんていわれて、壇上に上がってしまった。  まあテーマが自分の体験したばかりの裁判の話なので、何とか話すことが出来て、それもスライドもなく、明かりも消さずにやったのだから、自分でもよくやったと思う。いちおう所定の時間を話し終えて、自分としてはアルコールの力を借りずにそういうことの出来たのが、凄く嬉しかった。  いまはテレビやカラオケが日常化していて、人前に自分をさらすのが恥しいなんて感覚は、わからないだろう。だからこういう緊張も滑稽に聞えることだと思う。でもぼくのときはそうだったんだから仕方がない。  ところでつい演説と書いてきたが、講演と演説は違うような気がする。演説というと何かしら政治色があるようで、主義主張を大声で押しつけるというニュアンスがある。講演の方は主義主張ではなくて、何かちょっと思ったことをしゃべるというニュアンスで、ぼくのはやはり演説ではなく講演だろう。訂正する。  しかしぼくなんか十人以上はだめだったのに、最近は百人以上でもしゃべってしまう。やはり慣れだろうか。それとも歳をとって、恥しがるエネルギーが衰弱してきているのだろうか。まあ両方あるのだろう。  ぼくが人前で話すのは、昔の「ネオ・ダダ」や「ハイレッド・センター」などの前衛美術のこと、それから「トマソン」や「路上観察」のことをスライドを使いながら、というのがほとんどで、聴衆はだいたい若い人たちだった。  それが最近は「老人力」ということで、聴衆が一気にぐっと老人である。老人力というのは別に老人に限るわけではないんだけど、でもやはり、とりあえず単純に考えるせいか、圧倒的に老人が多い。主催者がまた、老人力だから老人問題だと、いわゆる老人介護や老人ホームなどの現実問題に結びつける。それは確かにそうでもあるんだけど、あんまり現実的に、大真面目になってしまうと、せっかくのシャレの力が消えてしまう。老人力から冗談が蒸発したら、いわゆる老人パワーの方にすり代ってしまうんだけど、その辺のことは難しい。結局は自分の話の中でそこら辺りを注意深くいうしかない。  講演会のお知らせを出すと、それを聞きに行くとどんな力がつくんですかと、そういう電話の問い合わせがあるらしい。聞きに行けば、何か特別な、超能力みたいな、いったいどんな力がつくんですか、というような質問らしい。  凄いと思った。一瞬、その質問者の頭の中をよぎった老人力とは、どんな力だろうか。おそらく仙人みたいな、空中浮遊とか、不老長寿とか、そういうものだと思う。それはムリですよ。  しかし演壇から見て、客席に老人がぎっしり並んでいるのは迫力がある。ぼくなんかまだ老人の駈け出しだけど、本当の老人のプロというか、重鎮《じゆうちん》というか、正真正銘がずらりとこちらを向いていると、やはりびびります。そもそも人間というのは目上の人、歳上の人には威圧されてしまうものだ。それまでやっていた前衛芸術の話のときなどは、若者がほとんどだから、まるで違った。  老人の迫力とは何だろうか。老人一人、という場合はとくにわからなかったが、老人の団塊を前にすると、何かしら「背水の陣」というものを感じてしまう。背水の陣でこちらを見る目があるのである。それが一人ならともかく、たくさんの背水の陣の目が並んでこちらを見ている。聴衆全員の向うが背水で、海が控えているのだ。波打際がもうそこまで来ている。  それはやはり若者の目とは違う。若者は背水の陣どころか、砂浜でビーチバレーか何かしていて、ふと一休みしたついでにこちらを見ている。背水といったって、泳ぐ体力もあるだろうし。  壇上にいるぼくだって背水の陣のつもりではあるが、しかしまだそうはいえませんね。年齢を考えてもまだ波打際まで余裕はあるし。  いやわかりませんよ。人生いつ背水の陣になるのか。ふと振り返ると、いきなり海岸の崖っぷちに立っていたりして、 「うわァ背水の陣だった」  と慌てたとたんに、崖っぷちから水に落ちることだってあり得る。まあそういう背水の陣の目付きを少し和らげてもらわないと話も通じにくくなるので、まずはとりあえず路上観察のスライドなど見てもらって、気分をほぐしていただくわけである。  そのことで思うのは、そういう講演会場というのは最新設備が多いんだけど、最新設備というのは、映りがよくないですね、ぼやぼやのが多い。とくにデジタルというか、電子変換して映す装置ほどダメである。  うちはマルチ映像です、とか、ズームでアップできます、とか誇らしげにいうんだけど、映りがぼやぼやではどうしようもない。そういう場合は、スライドを持ち込んだこちらとしてはがっかりだ。従来のスライド装置で映した方がはるかに綺麗である。  でもそのことをいっても、会場の係の人はきょとんとしているので、二度がっかりである。装置は最新で、高額なので、そんなはずはないと、頭で思っていて、実際の映像の良し悪しには無頓着な様子である。  たしかに最新装置だということはわかる。複雑そうなコントロールパネルがあって、ボタン一つであれこれできるようで、おそらく相当な予算を使っているのだろう。でも映像の程度が格段に低い。伸びたうどんというか、水っぽいべちゃべちゃのご飯というか、とにかく食欲減退である。それがしかも最新装置の結果だから、何のための高額予算かと、人ごとながら考えてしまう。  一般に世の中の感覚のグレードというのが落ちているんじゃないだろうか。  ひところプリクラというのが流行《はや》りましたね。いまもつづいているのかどうか、とにかくあの粗悪な映像の拡大版である。プリクラの方は映像うんぬんよりも、男女が顔を接近するのが目的だから、映像のグレードはどうでもいいのだろうが、でもあんなものの流行を見て、人々の美意識というか、美感というのはずいぶんいいかげんになってるんだなと思った。  たしかにいつもコンビニのおにぎりやハンバーガーしか食べていなければ、まあ味はどうでもいいという感覚にもなるだろう。これは貧富の差とかそういう問題とは違う。  この間もっと驚いたことがあった。やはり路上観察のスライドを持って行って、控え室でケースにセットして、さて時間だから会場へというので行ってみたら、最近建てたらしい公共建築の、入口ホールが吹き抜けになっている。そこに映写機があってスクリーンがある。天井を仰ぐとずっと上がガラス張りになっていて、さんさんと日が差し込んでいる。横にもたくさん窓があって、しかし遮光幕の装置がどこにもないのだ。要するに暗くできない。  え!? と思った。これでどうやって映すの?  いや、大丈夫です。ライトのパワーを上げれば映ります、という。しかしパワーといっても……。  係員がすでに電源を入れているんだけど、コントラストの強い一部がかすかに映るだけで、パワーなんて上げたって、もともと明るいスクリーンに映像がちゃんと映るわけがない。スライドが痛むだけだ。  何だか猛烈に腹が立ってきた。映像を侮蔑されたようだった。もちろん映写はやめたが、係員がそれを不服そうに受けとめているので二重にショックだった。事態を何もわかっていないのだ。自分でわかろうとする頭がないのだ。  しかもそのスクリーンというのは、壁際に一部低く設置された天井に格納式のもので、「ボタン一つ」で「自動的」に下りてくる。つまりそういうものとして、堂々と造られているのだ。  まあいろんな税金の使い方があり、いろんな人生がある。  怒って帰ればいいのに、ぼくは気が弱いからそうもできずに、急遽スライドなしのスクリーンの前で、それに代る話をしてきた。しばらくは自分のお人好しに、自己嫌悪におちいった。  ぼくはわりと人を信じる方だが、信じることにはいつも危険がともなう。 [#改ページ] [#1字下げ]お墓の用意[#「お墓の用意」はゴシック体]  みんなもう自分のお墓は造ったのだろうか。ぼくはまだ造っていない。自分の墓を造っているという人の話をたまに聞く。でも世の中にそうはいない。  まとまったお金が出来たら、まずふつうは家のことを考える。建て直そうとか、どこかにマンションをとか。  まとまったといっても、そこまでいかぬ場合は車ということになるらしい。ぼくは自分で車を持ってないので、その辺の所有感覚はわからないが、たとえば賞金五百万円とかいうと、じゃあベンツ一台か、というようなセリフを聞いたりする。  まとまったお金が、もっと物凄くまとまった場合、家を建てて、ベンツを買って、それでもまだまとまっているので、じゃあ自分のお墓を建てよう、ということになるのだろうか。ぼくはならないような気がする。  生前に自分の墓を造る人は、おそらくもっと別の何か宗教的な考えがあるとか、あるいはたまたまそこが空いていたという事情とか、とにかくお金だけではない理由があるのだろうと思う。  ぼくは自分のは造ってないが、両親のお墓は造った。もう十何年か前だが、ぼくが造ったわけではなくて、うちは兄弟六人いて、みんなで造った。  これはだいたいそういうものだろう。先祖代々の墓があれば、別に新しく何をするということもないだろうが、東京とか都市部に出てきた人の家族は、先祖代々の墓があるにしても遠い。しかも代々がつづいて、縁も遠くなっている。  人間というのはせいぜい二代だ。あるいは三代がぎりぎりじゃないか。つまり自分にとってのお爺ちゃんお婆ちゃんの関係。  ぼくの場合はそれも知らない。五番目の子供なので、ということはもうお爺ちゃんはこの世にいなかった。お婆ちゃんも会っていない。お葬式の写真だけは後で見ている。  というわけだから、ひいお爺ちゃんとかひいひいとかなると、もうほとんど神代の時代だ。それも地元定住型の家族なら先祖代々の墓やその他があるからまだしも、東京などに上京組の家族はもうわからない。実感がもてない。自分がこの世に生れているかぎりは、ひいひいのひいひいとなって、縄文はおろか石器時代はおろか、ネアンデルタールはおろか、正しいことは何もわからないが、海水中のアミノ酸とか、有機物はおろか、宇宙のビッグバンにつながるわけで、もっと前もあるはずで、もうぜんぜんわからない。  そんなわけで、実感がもてるのは両親。だから両親のお墓のことはみんな考える。お墓だから石で造るわけだが、本当は木でいいのかもしれない。家族の末裔《まつえい》が定住する自信があればいいが、せいぜいが三代で、それを過ぎると一気にすうっと薄まっていく。まあ五十年から百年、木なら何とかもつんじゃないか。あとは自然に土に還元される。  庭に垣根を造るとき、植木屋さんが来て竹の柵を造り、そこにカナメモチか何かの若木を植えていく。柵はその支えだけど、竹と麻紐で大丈夫かな、朽ちてしまわないかな、とシロートは思うが、大丈夫なのだ。二年目三年目と竹の柵はだんだん朽ちていくが、入れ替りに木の方が育っていって、竹の柵が完全に朽ち落ちるころには、垣根の木の方はもう支えがいらなくなっている。ちょうどいいのだ。ちょっと理由は違うかもしれないが、お墓というのもそんなようなものだ。忘れられたころ朽ちているのが、本当はいちばんいい。  パソコンというのも、本当はベニヤ板かダンボールで造るのがいいんじゃないか。新旧の入れ代りは垣根よりも早い。とにかく発展途上の道具だから、いま出た新型がすぐ古くなって、来年にはまた新型が出る。耐久性なんてほとんどいらないのだから、ボール紙でもいいんだと思う。中身のICどうのこうのの、それもほんの一か所が進化して、そのたびに新型発売というんだから、ほとんど犯罪である。資源濫用の環境犯だ。ICなんとかは金属やプラスチックの必要があるのだろうが、あとはダンボールかベニヤ板にするべきで、通産省や何かいろいろあれして、その点を法制化しないといけないだろう。人類滅亡の後にパソコンの「旧型」の山だけが残されているというのは、もはや冗談というわけではないのである。  お墓は道具とは違うから、もちろん同じには考えられないが、基本としては同じことがいえる。せいぜい百年もてばいいんじゃないか。  前にお寺に行ったとき、法事のスケジュールが書いてあって、一周忌、三回忌、七回忌とずうっとあって、最後に百回忌とあるので驚いた。その人が亡くなったとき十歳の子供だった人が、百回忌をやるときには百十歳。その歳になってもう人の法事どころではないと思うが、いちおう書いてある。どうなんだろう。垣根としたら、ほどよく朽ちる竹の柵じゃなくて、絶対に朽ちるのは嫌だという石の柵みたいに思う。  両親の墓を造ったのはもう十何年か前だ。父が死んで、都営墓地の抽選に毎年応募して、毎年落ちている間に、母も死んだ。父と母は八つ違いで、八年の間を置いて、二人とも八十歳で死んだのである。  もう何とかしないといけない。兄弟のうちの決断力の早い一人が、Y霊園というところの一画をぽんと決めてきた。ぼくもとにかく毎年都営に外れっぱなしなので、本当はもう少し場所的にいい所をと思うけど、何となくみんなでそこにした。O船の駅からバスに乗ったりして恐ろしく行きにくいところで、うちの場所というのが、その霊園の端の石段でずうっと登って行ったところだ。もう少し何とか、と思うけど、みんな世渡りの下手なのばかりだから、まあこんなものかと、そこに墓石を建ててお骨を入れた。  何ごともそうだろうが、はじめのうちは毎年の命日にせっせとお参りしていた。でも人間だから、だんだん足が遠のいていく。いや人間のせいにしちゃいけないが、とにかく交通不便で、石段だらけで、行きにくいのだ。そうやって苦労して行って、行ったところが何か素晴しい所というか、気の休まるいい場所というならいいが、それもない。  いやお墓とはそういうもんじゃないといわれる。遠い所を苦労して行くのがいいとか、いろいろいわれるが、ものはいいようで、やはりいつも行きたくなるようなお墓じゃないとどうもだめな気がする。お墓参りといっても、こちらは宗教のプロじゃなくてシロートだから、何かおまけが欲しい。近くに美味しいそば屋があるとか、お花見が出来るとか、そういう副産物があるとつい行きやすくなる。  今年(一九九九年)も皆既日食があって、今回はヨーロッパである。フランス、ドイツ、ハンガリー、そしてトルコ、イラク、イラン。皆既日食の場合、晴天率など物理的にはトルコ、イランの辺りがいいといわれている。だから完全に観測目的の科学班ならそこがいいけど、シロートの場合は観測というより観望といった態度だから、むしろその前後のおまけが重要になってくる。皆既日食そのものの時間はほんの二、三分。それがあっての観測旅行だけど、でもじっさいにはその二、三分の前後を観光して歩くわけで、時間消費はそちらの方がほとんどである。それを無視できるものじゃない。そんなことをいろいろ考えて、フランス、ドイツはいいけど、あの辺は曇りやすいし、トルコならまず晴れそうだけど、このところ政情不安だし、でもあそこにはイスタンブールがあるし、といろいろ迷うのである。 (画像省略)  お墓の場合も、人間だから、やはりおまけは無視できない。お墓参りの半分か、もしくはそれ以上のウェイトを占める。シロートの場合。  兄弟で何となく話しているとき、いまのY霊園の墓はどうにも行きにくいし、どこかに移そうかということになった。ぼく自身、このところぜんぜんお墓参りしてないし、気にはなっている。さて命日だから行こう、と思っても、あそこだとめげちゃうんだな。もっと行く気になるところにしようよ。  宗教のプロが聞いたら眉をひそめるかもしれないが、でも、結果としてめげてお墓参りに行かないよりも、おまけにつられてでもお墓参りに行った方がいいと思う。  K倉に兄嫁の知り合いがいて、あるお寺の墓地のチラシ広告が来てた、という話を聞いた。K倉はいいよなあ、おまけがたくさんあるし、お墓参りの帰り美味しいものが食べられそうだし、行きたくなるよ。行きたくなるというのはいいことだよ。いや、おまけにつられるのは不純だといっても、行かないよりはいいに決まっている。  兄たちととりあえず見に行ってみた。K倉といえば歴史があるし、観光地にもなっている。だからお寺はだいたい拝観料を取る。三百円、二百円、百円とかいろいろあって、その知人に教えられたのは二百円のお寺だった。  しかし変なものである。拝観料というのはまあ文化に対してのお金で、その中に「実用」のお墓を造るとは。もちろんそうなればその墓にお参りの人は、拝観料は関係なく出入りできるのだろうが、でも変な気持だ。入場料がいる、つまり文化財的な場所の中で自分の親族のお参りをするというのは、どんな気持だろうか。  行ってみたらそこは静かないいところだったが、その売り出し中の一画というのが、いかにも、住宅でいう建て売りの感じで、きちきちの狭い、じつにふぜいのないものだ。お墓なんてそういうものだと、そう思えばそれでもいいが、しかし買物としてはけっこうな大金を払うわけなんだから、それを思うともう少し何か、味わいが欲しい。  案内してくれるのは石屋さんである。業者の経営する霊園ならともかく、お寺となると、直接お寺がセールスに励むわけにもいかないのだろう。だから石屋さんにまかせているのだ。石屋さんがA、B、Cと三段階ぐらいある区画地を説明してくれる。うーん、と考えていると、石屋さんとしてはご推薦の一画があって、 「やっぱりここでしょう」  と地面に立札を差してしまった。あらかじめ電話をしていたので、もうこちらの名前が書いてある。ええ? と少々うろたえていると、いや、また抜くのは簡単ですから、といっている。うーん。  駅前の喫茶店に入って、いろいろと契約の仕方など事情を聞いた。石屋さんもお寺の出なのだそうだ。兄二人は住職だそうで、三人目はもういいだろうと、石屋になった。  こちらはお墓に入る条件が気になる。その墓が〇〇家之墓だとすると、そこに入れるのは本家というか、長男、いわゆる嫡子《ちやくし》の系列だけで、次男以下は入れないと聞いたことがある。ぼくは次男だ。そうすると両親の墓を造ったはいいが、自分がそこに入れないとなると、ちょっと困る。その点はどうなのか。  石屋さんの説明では、その規則は東京だけじゃないかという。この辺りではその墓の名義人の六親等まで入れる。六親等というと、従兄弟よりもっと遠くて、まあ親戚ならだいたいいいことになる。そうか、そういうことなんだ。そりゃそうだよな。何だか安心した。六親等まで入れるとなると、物凄く広いような気がする。目の前の墓の敷地なんてほんの小さなもののくせに、人間の頭なんておかしなものだ。  兄嫁はその後娘に会ったときに、それを言ったそうだ。六親等まで入れるんだからあなたも入れるのよ、と言ったら、 「お母さん、お風呂じゃあるまいし」  と言われたそうだ。それはそうだ。  その後まあいろいろあって、その建て売りふうの場所はちょっと保留にして、また別のお寺の墓地に行ってみた。別に焦ることはない。墓地を探すというのが目的だけど、そのオマケの一日をぶらぶら楽しめばいいのだ。連休の間はそうやってお寺巡りをしていた。 [#改ページ] [#1字下げ]パリのホテルでバタンキュウ[#「パリのホテルでバタンキュウ」はゴシック体]  久し振りの外国旅行でパリへ行った。いまさらパリへ何しに、と思われるだろうが、ライカ同盟という団体旅行で行ったのである。団体といってもメンバーは三人。だから団体というよりもグループですね。  ライカ同盟というややミリタリーっぽい名前が出来たとき、洒落と冗談が盛り上がって、じゃあ目標はパリ解放だ! といってますます盛り上がった。もう五、六年も前のことだ。たんなるゴロ合わせみたいなものだ。でも盛り上がった以上はつじつま合わせが必要で、じゃあそのココロは、パリをすべて絞り開放で撮る、となってみんなで大笑いした。  ここで一般市民のために少し説明すると、レンズには絞りというのがある。口径のでかいレンズは開放値が大きく、F2とかF1.4とかだ。最近のコンパクトカメラの場合はレンズを小さくしてあるので、F2.8とか3.5、あるいはF5.6となっている。  まあ細かいことは置いといて、とにかくパリ開放! という冗談が一人歩きしてしまい、言った以上はパリへ行かなければならなくなった。冗談の力というのは恐ろしい。  今回、飛行機の時間も入れて十日間。いまのぼくには十日間を明けるというのは大仕事だ。ユーゴのミロシェビッチみたいに、仕事の浄化だといって他の仕事を全部切って捨てたら、NATO軍の空爆を受けることは必定である。そうなったら国際社会を生きていけない。  というので群がる仕事を両手両足で片付ける感じで、さすがに胃腸にプレッシャーのかかるのがよくわかりました。何だか神経がぞりぞりしてくる。仕事をすること自体は、過重労働であっても何とか耐えられるが、あれこれ大丈夫かと考えてやきもきするという気苦労が、いちばんこたえますね。たとえばの話、空港とか新幹線の駅にバスなんかで向かっていて、それが時間ぎりぎりで、乗り遅れたらどうしよう、降りたらすぐ走って、とかそうやってやきもきしている状態がいちばん良くない。  仕事の中には講演というのもあって、あれも流れにうまく乗れないときには非常に疲れます。ことにシンポジウムなんて、ぼくは苦手だからまず出ないけど、でもたまたまそういう場面にはめられることもあるわけで、人の話が面白ければまだしも、面白くもない話を終りまで聞かなければいけないというのは本当にいらいらして疲れる。嫌なら会場を出てしまえばいいけど、立場上そうもいかないという場合。  たとえば、たまたま油断して行ったところがカラオケバーで、つまらぬ人の歌を聴くはめになる。あれと同じ。席を立つタイミングがなかなかつかめず、聴きたくもない歌をじーっと聴いている。そのうち人間嫌いがだんだん自己嫌悪にまで深入りしていって、あれは本当に疲れる。体によくない。神経と、胃腸によくない。  それにまたこうやって詰めているときには、誰か人との儀礼的な挨拶というのも非常に疲れていらいらする。要するに名刺交換的なあの場面。もちろん余裕のあるときは、まあこの、いろいろと、社会的な、こんにちの、ご挨拶の形を踏んで、それらしく振舞うのも、それはそれで演劇的でいいのだろうが、詰めているときにはいらいらする。 「どうも、このたびは……」  とかにはじまって、そのあといわれることはわかっている。その間結局カラオケの歌を聴いてるようなもので、その辺は何とか省力化して欲しい。といって世の中に儀礼はある程度は必要だから、たとえば胸にランプでもつけておいて、挨拶のときはそのボタンを押したらどうだろうか。  しかるべき立場の初対面の人に会ったら、「儀礼」のボタンをぽんと押して、胸のランプを灯してからさっと用件に移る。やはり世の中に礼儀は必要だから、そのランプも灯さずにいきなり用件に入る人には、 (あの人は儀礼ボタンも押さないで……)  と陰口をきけばいいのである。  同様に「見栄」というボタンもあっていいんじゃないか。人の話の中で、知識の見栄を張りたくて聞きたくもない話をする人がいる。でも気持はわかる。という場合、 「わかりました、どうぞボタンを」  といって見栄ボタンを押してもらって先へ進む。  文章でもありますね。本心は見栄を張りたくて、学識をひけらかすというか、ウンチクをずらりと並べる場合。それが面白ければウンチクもいいんだけど、面白いのは稀である。その場合、気持はわかるからというので、文中に見栄マークを入れる。見栄マークが入れば、文章を五行分だけ水増しを認めてあげる。何だか地域振興券みたいですね。  まあふだんはそういう儀礼とか見栄とかの話も、ナマで、 (はいはいはい……)  と聞き流せる方なんだけど、何しろただでさえぎっちりの仕事に十日間の明きを作るとなると、ついにそういう神経にまで皺寄せがいってしまうのだった。  飛行機の荷物は、機内持ち込みの手荷物と、預けてしまう大きいのと二種に分かれる。手荷物は壊れやすいカメラをまず中心に考えるけど、今回は原稿中心に考えた。何しろ十何時間も乗っているんだから、かなり書ける。だからいつでもさっと出せるように手荷物を構成する。国内の新幹線でもそうだけど、国内の場合はせいぜいが二時間だ。  宇宙旅行ともなると、相当原稿が書けるだろうな。ああ悲しい貧乏性。でも嫌な仕事ではない。好きだからいいんだそれで。  そんなわけだから写真つきの原稿やイラストつきの原稿、あるいは資料のいる原稿などは家で片付け、機内持込みは原稿用紙だけですむシンプルなものを配分した。つまりこの期間、仕事も先発、中継ぎ、抑えと、まるで現代野球の監督みたいな頭を使ったのである。といっても選手は自分だから、プレイイングマネージャー。昔有名なので阪神の若林がいた。いまのプロ野球ではさすがにいない。  機内でまず手がけたのは『優柔不断術』の最後の章。これはもう十年来の企画で、書き下ろしだからなかなか出来なかった。まさに優柔不断のなせるわざなんだけど、しかしこのところ『老人力』がこのようなことになり、この『優柔不断術』はいわばそれに繋がる「思想書」なんだから、もうここでやらなければ出る目がない。というので奮闘して、やっと書き上げ、ゲラにまでこぎつけていた。本当は完全に仕上げてから飛行機に乗りたかったが、最後の終り方がどうも気になる。というのでその数枚が機内持込みとなり、まずそこから手をつけたわけである。  機内というのはほかにすることはないから意外と集中できる。隣席は同盟員のA山太子が寝たり起きたりしていて、気は許せる。電話は掛からないし宅急便は来ないし、お茶や食事は出てくるし、むしろ家にいるより仕事は進む。というので落着きつつ緊張して思考執筆することができた。いちおう一冊の本の終章だから油断はできないけれど、場合が場合だから三振は狙わず、打たせて取る感じで投球数を少なく、ロシア上空辺りで最後の打者を打ち取りゲームセットとなった。いちおう十年来の安堵感にひたりながら、あとがきである。これはいわばヒーローインタビューみたいなもので、気苦労がぜんぜん違う。 「いまのお気持は……」 「いやあ、とにかくチームが勝ててホッとしています」  というようなものだが、まあここだけの話、というか自分だけの話、感慨無量であった。先にもいったが十年来、湾岸戦争の始まる前からである。担当のM新聞社のN上君と打合せのたびに盛り上がるけど、原稿はいっこうに進まない。打合せで盛り上がり過ぎると、どうもそこで満足していけないようである。だから打合せはほどほどに。といっても難しいですね。 (画像省略)  そんな気持をあとがきに込めながら、書き終えたのは飛行機が乗り換えのアムステルダムに着くころだった。だからあとがきの末尾には、 「一九九九年五月二〇日、KLM820便アムステルダム上空」  と、書いた。まあそれもそれで記念にいいと思ったんだけど、帰ってそれを渡して、活字にしてそれを見たとき、まあやはり、ということでそこは削った。  そんなわけで十年来の仕事を仕上げて、野球でも勝つことがいい薬になるというけど、どーんと気が楽になった。あとはもうオマケみたいな気持で、連載のエッセイを一つ二つと仕上げる。それだって労力は労力だけど、胃にはこない。おそらくこれで、暗くなりかけた胃も快方に向かうはずだ。  いや自分で決めつけるわけじゃないけど、前に健康診断のとき、友人のM田君にそういうことがあったのだ。胃のレントゲン写真を見ながら、N瀬先生が過去の潰瘍の跡を見つけて、本人のM田君もびっくりしていた。自覚症状としてはなかったらしい。でも胃の中では何らかのストレスが潰瘍に発展して、それがさいわいにも、無自覚のままに自然治癒していたのだ。いわれてみればM田君も、仕事の上で大変な時期があって、なるほど、あのころなんだな、と言っていた。  おそらくぼくもこの時期、ちょっとそんな気がする。でもこのあとがきの一勝で、おそらく治癒方向に向かっているはずで、今年の健康診断が楽しみだ。まあ思い過しかもしれないが。  歳をとると、五感のいろいろは少しずつ鈍るけど、そうやって自分の神経の反応を多少は客観的に見られるようになってくる。これは何だろう。生きていることの切実さが、多少ゆるくなってくることのあらわれか。若いころはそこからさらに神経が深入りして、そういう現象に踊らされることがあったように思う。少なくともそうやって、自分の神経に自分が踊らされてしまうということは、なくなっているような気がする。人間ちょぼちょぼというか、人生ちょぼちょぼ観が出来上がってくるせいかもしれない。  そうやってパリに着き、ホテルはサン・ラザール駅の近くのコンコルド・サン・ラザール。ずいぶん立派なホテルだ。そのせいでもないだろうが、FAX料はえらく高い。でもこれで解放される原稿だから、意気揚々と高級FAXを日本に送った。  パリでは歩きましたね。物凄く歩いた。万歩計によると一日二万歩。日本よりも事情がわからないから歩くロスもあるのだろうが、毎日二万歩で一週間というのは、僕としても最高じゃないか。日本で路上観察といってもせいぜい一万歩ちょっと。  というわけで、日本での気苦労からは解放されたけど、こんどは肉体労働になってしまった。どちらがいいかというと、やはり肉体労働の方が寝るときもバタンキュウで自然ですね。  気苦労はないといっても、パリだからやはり気を張っているということはある。でもスリその他の危険は今回はあまり感じなかった。ぼくとしては三度目ということもあるし、パリ自身の変化もある。とはいえやはり日本とは違って、そういうものに狙われないようにてきぱきと歩くから、万歩計の数字も着実に向上するという事情はあるのだ。  パリ開放といっても、全部律儀に絞り開放で撮ったわけではなくて、やはりピントの心配があるから絞り込んでも撮ったし、いちおうホケンのカメラでも簡単にパチパチ撮った。気を張るのは人体にいいにしても、ストレスはよくない。まあ適当にというか、あらかじめの完投ペースで、もう高校野球じゃないんだから、三振奪取はほどほどに、とりあえず打たせて取る感じで、まあやってきたわけである。 [#改ページ] [#1字下げ]宇宙の寄り道[#「宇宙の寄り道」はゴシック体]  人間の人生というのは、そもそもが寄り道なのかもしれない。ぼくならぼくというものが、ふとこの世に寄り道している。本来はあの世からあの世へ音もなく、形もなく、何ごともなく行くはずであったものが、ふと精子と卵子が出合ってしまって、ちょっとだけというのでこの世に顔を出して寄り道している、ということなのかもしれない。  そう考えると、むしろ少し納得するようなところがある。我々はどこから来てどこへ行くのか、我々は何なのか、という命題が昔からあるが、考え方によってはどうにもわからず、考え方によってはノイローゼになる。だからあんまりムリして考えてはいけないわけで、まあ寄り道なんだろうと思えばいいような気もする。  そう思いついたのは、躁鬱の波について考えていたときだ。ぼくには躁鬱の気はなく、むしろ分裂気質だと思っている。だから躁鬱気質について人ごとのように考えることもできるのだけど、まずは躁と鬱の波があって、その波の長い人と短い人といるようである。ふつうは季節ごとにくる波がよくいわれる。春は躁になり秋は鬱になるとかいわれて、まあそれは躁鬱といわないまでも、春は気持が浮き立つもので、秋はどことなくメランコリックになってくる。  あと、午前中はどことなく無口で、夕方ごろから元気になって、夜の酒が入ると俄然賑やかになるという人もいる。  友人で、話しているとばばっと賑やかになり、話題がちょっとよそに行っている間ぼうっとぼんやりする人がいる。この人の場合は躁と鬱の波が短く、秒単位であるみたいだ。  かと思うといつだって賑やかな人、反対にいつだってじーっと沈んで無口な人もいる。そんないろいろを見ながら、躁鬱の波には短波や長波、超短波や超長波もあると考えたのだ。だから秒単位で浮沈を繰り返す人もいれば、月単位、年単位で浮沈を繰り返す人もいる。とすると十年単位二十年単位、あるいは人の一生より長い波もあるのではないか。であれば、たとえばそういう波の下がりはじめに生まれて、ずうっと底ばいの波で人生を過して、やっと波が上がり気味のところで人生の時間切れとなった場合、その人はほとんど一生鬱だったということになる。  もちろんこれは勝手な考えだが、つまり人生をも上回るような躁鬱の大きな波があると考えてみれば、この世の人生だけでは見えない巨大な波というものがあの世も含めた世界に仮想できるわけで、そうするとこの世は一つの寄り道だと考えられなくもないわけである。  そもそもこの世の物質宇宙というのが、ビッグバンによってあらわれ、はじまったと考えられている。突然の超大爆発で超高圧超高熱の固まりが拡散していき、現在の宇宙の形になってなおも膨張をつづけているらしい。それがこのあと収縮に転ずるかどうかは宇宙総体の質量に左右されるらしくて、まだわからない。でもいずれは収縮に転じると思う。まあそれはともかく、ビッグバンで始まったことだけは確かなようで、科学的にはそう考えるほかはないらしいのである。  で、ビッグバン以前はどうかというと、何もない、無だということになっている。でもさきの人生をモデルにしてみれば、このビッグバン宇宙を上回る大きな波があって、この宇宙はその一つの寄り道部分なのじゃないかと考えられる。爆発しては収縮し、一見無になってまた爆発からはじまる。そう考えた方が自然である。  波というのは何にでもあるもので、机に向かって仕事をしながら、仕事一筋ではどうにも何だか具合いがわるくて、つい棚の上のカメラを手にして、意味もなく空シャッターをカシャカシャ切ってみたりする。  寄り道の波である。カメラの嫌いな人ならそんなことをしても何にもならないだろうが、ぼくの場合はカメラが好きなので、そうやって寄り道して、また仕事に戻っていく。そんなムダな時間がなければもっと仕事がはかどると、計算上は思うが、実際にはそうはいかない。  頭の計算というのは意味だけを考えてのことだけど、実際というのは、無意味が混入してはじめて波となってうごいていくもののようである。  たとえば蛇行する河の写真を見て、河というのは何でこんなムダな動きをするのだろうかと思うことがある。ほとんど平地なんだから、A点からB点へさっと流れたらよさそうなものなのに。  と考えてしまうのが、計算的頭の宿命というものだろう。実際には、河だってそうなんだけど、ほんのわずかの高低を見つけて流れるうちに、少しずつ蛇行がはじまる。蛇行するうち、カーブの部分の水圧が強くなって、ますますそこをえぐって広げながら、蛇行を大きくしていく。  どうしても寄り道がふくらむわけである。あっちこっちと寄り道をして、その寄り道と寄り道を繋ぎながら、くにゃくにゃと進んでいる。  人間の一生も、この宇宙というのも、そんな蛇行する河のふくらみの一つかもしれないのである。  何につけ、ものの動きには、あるいはものの分布には、波というのが生れてしまうようなのだ。ものが進むために波が生れるのだろうか。それともものが進む結果として波が生れてしまうのか。いずれにしろ何ごとか進むためには、どうしても寄り道しないとダメらしい。      *  あの世というのがどうもはっきりしないのが、人間みんなの悩みの種である。それは宇宙論でも同じことのようで、この宇宙のはじまり、つまりビッグバンの瞬間まではさかのぼることができるが、その瞬間以前のあの世がまるでわからないという。  でも人間の場合はわかる。人間の場合のビッグバンは「おぎゃあ!」という泣き声だけど、それは赤ん坊が空気に触れてからのことで、それ以前、母胎の中での様子も最近ではよくわかっている。お腹の中でだんだん大きくなって、その性別までわかるらしい。うっかりすると事前に「男の子ですよ」とか「女の子ですよ」とかいわれるわけで、しかしそれはいかがなものかと思う。  出産というのは物品の生産とは違うわけで、赤ん坊というのはどちらかというと作品ではあるけど製品ではない。やはり偶然自然、神秘の力に関わることだから、製品みたいにムダなく合理的にだけ出来てしまってはまずいのである。赤ん坊がただの製品になってしまったら、人間の意味、この世の意味というのが稀薄になって、人生というのもただの、何というか、ただの何かになってしまう。  ちょっと難しいことになってきました。  率直に考えて、人間の生命のビッグバンはいつだろうか。生命の発生ということでいうと受胎の時。精子と卵子の結合の瞬間である。つまりずぶり、ぴゅっ! ふう……、というときの、ぴゅっの瞬間である。  でもそれは人間の頭で考えたビッグバン、生命の発生という論理から逆算した瞬間のことで、そのぴゅっの瞬間というのは、生命の発生というより生命の可能性の発生といった方が正しいのではないだろうか。  と考えていくと、人間の生命のビッグバンはやはり「おぎゃあ」だろう。その瞬間に新しい人生がこの世に出てふくらみはじめる。それまでは母親がいて母胎があるにしても、その新しい人生はまだこの世にはないのである。この母体にしろ父体にしろ、かつて同様のビッグバンによってふくらみ途上の人生体なのである。  力学関係図というのはだいたい万物みな共通しているもので、この宇宙にしても、この宇宙からは見えない遥か遥か遠いどこかに、この宇宙の母胎宇宙があるのではないかと考える。  ちょっと空想になってきました。  科学というのは正しい学問なので、ビッグバンの瞬間まではたどれるが、それ以前の状態は「無」としかいえない。それはさすがに正しい判断だと思う。その先は科学的な考察がムリなのだ。いわば科学の地平線とでもいうものか。 (画像省略)  世の中のことでも、正義とか正論の地平線というのがあるものである。ある正論でまとまった社会があって、遥か離れて、また別の正論でまとまる社会がある。本来ならそれは互いに見えないものである。  横断歩道をたくさんの老若男女が渡っている。みんな新しい人生誕生の可能性を抱えているけど、それが横断歩道上で実現するわけではない。来たるべき子供の立場からさかのぼって考察すれば、無ということになる。そういう横断歩道の一人一人の人生体に、いい換えれば半径百五十億光年といわれるこの宇宙を模して考えられるのではないか。  このいまいる宇宙は半径が百五十億光年で、年齢もいまのところは百五十億歳だといわれている。推定によるとこの宇宙の寿命の中間くらいだそうで、いずれ膨張が止り、収縮に転じて、最後は超高密度の一点に収縮し尽して、ふたたび「無」となるらしい。それがしかし収縮に転じるか、膨張しつづけるかはまだわからないらしいが、まあ収縮に向かうだろう。世の中の万物がそういう流れを持っている。人生にしても、膨張しつづける人生体というのはないわけで、いずれ臨界点に達して収縮に向かう。  でも考えてみると、一回限りのご破算というのが凄いと思う。つまり超高密度の一点が爆発して、膨張をつづけながら各所でガス体が回転をはじめて、それがまた各所で固まりながら惑星系になって、それ自体がまた爆発、収縮を繰り返しながら、あるところで生命が生れて、それも何度か滅亡を繰返しながら、いまここでやっとティッシュペーパーを使うような人類になっている。そういうものを残して引き継ぎながら発展するというのではなくて、すべてを引っくるめて半径百五十億光年の宇宙がいずれ一点に収縮して無になる。  ぜんぜん貧乏性がない。せっかく発達した文明がもったいない、というようなことと無縁に、全部がいったん無になり、次はまた無からはじまる。  人間の場合もそうで、うちの親父もお袋も完全に死んでしまった。いまはまったくの無だけど、かつてそこから生れた自分の歩き方や腰つき、咳払いなどが親父に似ている。つまり遺伝というようなことがあるわけで、宇宙の場合にも収縮していったん無になったはいいが、その無からまた次の爆発宇宙が発展するとき、遺伝のようなことがあるのだろうか。  銀河系、太陽系といった局部的宇宙では、やはり遺伝のようなものが見られるようである。もちろん科学的に正しくなんてぼくが言いようがないが、この膨張途上の宇宙の中で、あちこちの太陽や銀河系が爆発収縮の興亡を繰り返し、それぞれが入り混じったり離れたりということをしている。それを観察すると、現在の爆発太陽だけでは生れないような、つまり過去何度かの爆発太陽の中で生れて継続してきたような物質要素があるようで、それがある種の遺伝のようなものなのかもしれない。  子分は親分の真似をするもので、そういう太陽や、銀河系や、この宇宙の真似をして、人間というのも生れたら死ぬ、爆発収縮を繰り返しているのだろう。天体にならっていうなら、人生体というわけである。おぎゃあと爆発して、膨張していったあと、ふっと収縮する。  子分は親分の真似をするけど、それだけではつまらない。何か親分以上になりたい。以上がムリなら、いずれ親分とは別の方向に行ってみたいということがあるもので、それがある天体上で生命を生んで、意識というものに発展したのだろうか。  たしかに人間の意識というのは物質世界とは違う独特の働きをするもので、でもよく観察すると似たところがある。子分は親分の真似だけでなくオリジナルを、と頑張っても、基本的な力学関係、流れとかリズムとかいうものは、やはり親分のやり方を踏襲している。  科学技術が発達して宇宙や物質のことがだいぶ明らかになってきた。でも東洋の先人たちはそういう宇宙構造を既に洞察していた、というようなことがよくいわれる。それはこの親分子分の関係というか、身の回りのものにまつわる力の構造、流れとかリズムのようなものが、すべてのものに通底しているということを見つけていたのだろう。それが結局は宇宙構造、大親分の性質にまで繋がることを察して、すべてを理解し、あとは霞を食品として生活設計を立てていたのだろうと思う。 [#改ページ] [#1字下げ]入る自分が消えていくお風呂[#「入る自分が消えていくお風呂」はゴシック体]  新しい墓地を決めた。自分の墓というわけではなく、両親の墓を移転するのである。いまの墓はわけもわからず、じつに行きにくいところに造ったので、何とかしたいと思っていたのだ。  兄夫婦とK倉を歩きながら、だんだんそのテーマに引き寄せられていった。K倉は歴史ある町で、観光地にもなっていて、お寺が多い。だいたいは入場料というか拝観料というか、それを取るのは入場制限の意味もあるだろうが、百円、二百円、三百円、という違いがある。三百円がいちばん上で、五百円はない。  千五百円、なんていうのがあったら凄いでしょうね。どう凄いのかわからないが。  兄嫁がこの辺りのお寺をときどき散策していてわりと詳しい。見た感じ質素なお寺があって、入場料は百円。ここはいつも花の手入れが綺麗だということで、中に入った。菖蒲とか、あじさいの垣根とか、石段を上がった道の両側にあり、日除けの帽子をかぶったおばさんたちがしゃがみ込んで手入れをしている。何かおっとりとした感じ。  さらに進むと山に分け入る感じになって、大木の生えた凹凸の斜面に、ふと小さな墓がある。何となく田舎道の道祖神という感じで、ふと行くとまたある。いつの間にかこのお寺の墓地に入っているのだ。ぜんぜんその感じがしないけど、木の陰や、シダか何かの葉陰にふっと小さな墓が点在している。  いいなあと思った。どうせ新しく墓を造るなら、こういうところがいい。地味で質素で、ひなびて、人生なんてそんなもんですよという感じがにじみ出ていて、何かぴったりとくる。お墓なんて後世の人の記憶の範囲のもので、いずれはひなびきって消えていくものだから、こういうのがぴったりだ。ここに造れないものだろうか。  そういう願望をふくらませながら、しかし墓石の文字を見て行くと、ずいぶん聞いた名前が多い。文学者や哲学者や、出版関係の偉人。それがぞろぞろとあって驚いた。これは相当いわれのあるお寺らしい。  はじめはこの自然な、ひなびた感じに引かれて漠然とイメージがふくらんでいたんだけど、しかしこのそうそうたる墓の名を見ていくうちに、願望は縮んでしまった。いままで都営霊園に申し込むとか、私設の霊園のチラシを見てどうのとか、それ的なことでしか墓地のことは知らなかったので、こういうちゃんとしたお寺の墓地の事情についてはぜんぜんわからない。  でもそもそもこのK倉の辺りにお墓を、と考えはじめたのは、あるお寺の売り出している墓地のチラシからである。こんなのがあったわよ、というのをK倉の知り合いから兄嫁が聞いて、それでは試しにと、半ば観光気分ではじまったことなのである。  それは石屋さんが出しているチラシで、そこに電話をしたら案内してくれて、しかしその最初のお寺の墓地の場合は、いかにも新開発造成墓地で、うーん、と唸って終った。  まあしかし試しにと思って、その石屋さんにこのひなびたお寺の墓地のことを聞いてみると、ご住職は知っているので、じゃあ聞いてみましょうという。じゃあお願いしますといったら、後日電話があって、まさかではあるが、OK、一つ空きがあるということなのだった。  偶然といえば偶然、出合い頭といえば出合い頭、ありがたいことである。  さて、墓の造作をどうするか。  いちおうは両親の墓なのだけど、いずれは自分たちも入る。となるかどうか、世の中どんな事情となるかわからず、いざ死んでみて、また別にお墓を、ということになるかもしれず、それは死んでいく人間にとってはわからないことだ。でもいちおうは覚悟の出費で造るお墓である。いちおうは、自分たちも入るつもりでいる。兄のところとぼくのところと、あとはまあそれぞれのことになるだろうが、しかしお墓というのも変なものだ。お墓に入ると言葉ではいうが、別にぼくならぼくがこのままの状態で入るわけではない。死んで消えてしまってその後のことなのだから、どうにも考えにくい。  個人の頭としてはそう思うけど、家族とか、一族とか、人類全体的な頭としては、やはり死んだ順番にお墓に入るということになるのだった。  路上観察の仲間に一木努さんがいる。生業は歯医者さんだけど、壊されて消える建物のカケラを集めている人で、はじめに会ったころ、その仕事の説明が、まず家族の歴史からはじまるのだった。何枚かのスライド映写で見せてくれたんだけど、いずれも家での法事のときの記念写真で、部屋の中の仏壇の前に、家族全員が坐っている。当然ながらその仏壇に飾られた小さな写真が亡くなられたご先祖様で、そのスライドがカシャン、カシャンと変るたびに、これがお爺ちゃんのとき、これがお婆ちゃんのとき、というわけで、仏壇を囲む家族の並びはほとんど同じだけど、少しずつみんな成長し、お嫁さんが加わったり、次には膝の上に赤ん坊がぽつんと現れたりして、その代りにお爺ちゃんとか、お婆ちゃんとか、歳の順に一人ずつ仏壇の写真へと変化して、一人また一人と仏壇に吸い込まれていく。  そんなものを淡々と見せられて、あっけにとられた。当り前といえば当り前のことだけど、家族がふくらみながら、仏壇の中に一人また一人と吸い込まれて行く様子に打たれてしまった。  お墓を造ってそこに入るというと、そのときのコマ撮り写真のような妙な流れが、どうしても重なってきてしまうのである。お墓に入る、入るといえばお風呂である。服を脱いで、肌着も脱いで、ほんの形だけ前を隠したりして、爪先立って洗い場を進み、お風呂に入る。それはたしかに入るんだけど、それが入りながら自分が消えていくお風呂だったら、どんな具合の感想になるんだろうか。  と考えてもわからないように、お墓を造るのは造っても、そこに入るという感じがどうもぴんとこない。  といいながら造るわけで、とりあえずはもうしっかりといなくなった両親のお墓で、まあしかしいずれ自分たちも入る予定が含まれている。  とにかくそれがとてもいい感じにひなびていて、しかも偉い人のたくさん居並んでいるような墓場なので、お墓もただ既製品じゃなく、周りの雰囲気を壊さないように造りたい。 (画像省略)  はじめ考えたのは赤瀬川の石だった。父の出自である鹿児島に赤瀬川という川がある。父たちもはっきりとは知らなかったのだけど、父の死後ぼくが行って見つけてしまった。そこの石を拾ってきて、そのまま墓石というのはどうだろうか。  ここの墓石には五輪塔が多くて、その脇に置いたちょっとした石に、小林家とか、鈴木家とか彫ってある。赤瀬川の場合はふつうより一文字多いし、家を付けずにそのまま赤瀬川ではどうだろうか。人の名であることをちょっと離れて、何かあいまいでいいんじゃないだろうか。  いずれにしろ全体のことをちょっと専門家に頼みたい。  藤森照信。  いま住んでいる家を造ってくれた人だ。お墓もやるだろうか。家に比べたらごくごく狭い敷地で、大して腕は振るえないかもしれないが、何か雰囲気をまとめて欲しい。墓地にニラを植えるとはいわないと思う。  同じ路上仲間の南伸坊君の個展が新宿紀伊國屋画廊であり、その隣のホールで「南伸坊研究」というトークショウがおこなわれた。藤森さんもぼくも出席者。終って近くのレストランに坐ったら、ちょうど藤森さんの前の席。この人と会うといつもその場の話で大笑いばかりして、用件を忘れてしまう。忘れないうちにと思い、 「藤森さんは、お墓はやらないかな」  つまりこれこれしかじかで、うちのお墓の設計をやってくれないかと訊くと、 「え!?」  と藤森さんが驚いている。何を驚いてるんだと思ったら、 「じつは……」  その日の朝、庭瀬先生からいきなり電話で、墓を造ってくれないかと頼まれたんだそうだ。墓なんて嫌だよ、でも誰の墓? と訊くと、自分の墓だというので、じゃあ断るわけにもいかないと、それが今朝のことで、そしてその日の夜にこのぼくのお願いである。  うーん、と唸りながら、ぼくも驚いた。じつは、これは書きだすと複雑なのでちょっとだけにするが、じつは数年前にやはりこの紀伊國屋ホールでぼくの書いた「シルバーロード」という芝居を上演した時、隣の紀伊國屋画廊で「シルクロード」という日本画の展覧会、あれ? と思ってのぞくとその画家が高校の二年先輩。その偶然はまあダジャレみたいなものだが、そのほかにもその日に複数の知人の出産が重なったりいろいろ、たくさんの偶然が折り重なって驚いたことがある。  それをぼくが「偶然日記」に書いたわけだが、後日テレビの仕事で俵万智さんに会ったらそれを読んでいて、 「じつは……」  俵さんもあの紀伊國屋ホールにからんでほとんど同じような偶然にいくつも見舞われて驚いたということを話してくれた。何だろうか。何かあの場所一帯に偶然を引き寄せるブラックホールでもあるんだろうか。  それはともかく、庭瀬先生というのはぼくや藤森さんが毎年健康診断をしてもらう先生である。ところがこの偶然にはまだ先があって……。  とにかく忙しい藤森さんをそのK倉のお寺の墓地に引っ張って行き、まず現場を見てもらった。ふむふむということで、事のついでにまた電車に乗って我家に寄って、屋根のニラの状態を診断してもらった。ニラハウスといわれる屋根一面のニラなのだけど、三年目の今年はちょっと元気がない。やはり少し肥料をというので、いっしょにヘルメットを被って屋根に登り作業をしていると……。  路上から見上げる人がいる。まあ風変りな家なのでそれは常のことだが、何かこちらに向かって言っている。見たら何と庭瀬先生。  この人は黙って人の家を外から見て、その観賞だけで会わずに帰るという変った趣味の人で、前にも一度来たらしいのだ。今回は顔が合ったのでまあどうぞというと、 「いま藤森の家にも行ったけど留守でさ、娘さんが今日は父は大学で研究中だって」 「え? 藤森さんここにいるよ、ほら」  ヘルメットを被っているのでわからなかったらしいが、とにかく大笑いの偶然だった。  ふと考えてみて、この偶然の順番がいいと思う。お医者さんのあとお墓だったらもうそのまま行っちゃいそうだけど、お墓のあとお医者さんだから、まだもう少しこの世でいろいろあるのだろう。  さてどんなお墓にするか、自分でもあれこれ考えるのだけど、自分の墓にもなると思うと、やはり一度は来てくれるだろうところの友人知人へのウケを考慮する。そこで自分が墓参りされている情景を想像していたら、ふと友人知人の墓も一度は見たい気になってきた。藤森さんの墓はどんなのだろうか。松田君の墓は、南君、林さんの墓は……。  歳の順から行くと路上仲間ではぼくが先頭だけど、ちょっと遅れて、ほかの仲間の墓も一度見てみたいという気になってきたから、まったく優柔不断は困るのである。 [#改ページ] [#1字下げ]最後に欲しいもの[#「最後に欲しいもの」はゴシック体]  無人島に一冊だけ本を持っていくとしたら、何にするか、というような設問がある。本の場合はよくわからないが、無人島に一台だけカメラを持って行くとしたら、という場合はやはりライカかな、と思う。とにかく念入りに作られていて、頑丈なのだ。  あるいはニコンでもいい。S2あたり。いずれにしろ昔の機械式カメラだ。いまの電子式カメラはやはり無人島向きではない。電池が切れたらどうにも動かないし、ちょっとした故障でも一切動かなくなる。  もう今日で人生は終り、明日死ぬ、となったときに、最後に何を食べたいか、という設問もある。これもいろいろあって、答を出すのが難しい。考えていくと、あれも食べたい、これも食べたい。  ある雑誌に「最後の晩餐」というページがあって、ぼくにその役柄が回ってきた。最後に食べたい物を写真に撮って、何らかのコメントをということ。こういう場合は変にサービス精神を出してしまって、読者の喜びそうな物を考える。なかなか素直にはなれない。  そのときはちょっと誌面を面白くというので、友人たちとぼくの育った大分まで行き、大分の家庭料理のリュウキュウとトージンボシを食卓に並べた。もちろん好きな料理だけれど、ちょっと演出し過ぎた。  この間路上観察の仲間と旅行をしたときもそんな話題になり、そうしたら藤森さんが、 「俺、この間決めたよ、人生の最後には鰻丼を食べる」  と宣言した。この人は大変なケンタン家で、人の二倍は食べる。ぼくとの比較では三倍は食べる。以前みんなでそば屋に入ってもりそばを注文し、するするっと食べた。ぼくももりそばは好きだ。食べ終って箸をぱちっと置くと、藤森さんも同時だった。そうか、そばくらいならぼくも負けない、と思ったのだけど、よく見ると藤森さんの前には既にそば容器が三段重なっている。ぼくは一段。  まあそのくらいの人だから、最後の晩餐が鰻丼だというのはわかる。ぼくも鰻丼は好きだけど、あれはぼくのお腹にこたえる。半人前がいいところ。全部食べると最後は、 「ふう……」  となってしまって後悔する。でも最後なんだから、お腹のことなんて考えずに全部詰め込み、さようなら、という考えもあるけど、でもお腹がきついまま、というのは困る。  しかし鰻丼の人気は高く、何かご馳走を一つというと「鰻丼!」と答える人は多い。  ところで鰻丼と鰻重はどう違うんだろうか。たんに丸い丼と四角い重箱の違いだろうか。いずれにしろ鰻丼より鰻重の方が高級感があるわけで、どうせ最後なんだから遠慮しないで鰻重にしたらどうなの、と藤森さんに訊くと、 「あのねぇ、鰻重は隅の米粒が食べづらいでしょう。鰻丼だとずるっと楽に食べられる」  という答えで、さすが食べるプロは違うと思った。高級感なんて持ち出したこちらが恥かしかった。 (画像省略)  まあそういう鰻丼だけど、真面目に考えてみて、ぼくはやはり最後となると白いご飯とおかずという形が欠かせない。鰻丼、天丼とか、カレーライスとか、中華丼とか、あれ式のご飯とおかずの合体したものは、お昼に食べるにはいいけど「最後の晩餐」となるとちょっとがっかり的なものがある。  まずふっくらと炊き上がった、出来れば新米の白いご飯。それと絶妙のバランスで漬かったおしんこ。出来ればヌカ漬けがいい。キューリかナスかカブ、あるいはヌカ漬けじゃないとしたら白菜漬けでもいい。もちろん絶妙なバランスということが不可欠。  ご飯とおしんこというのは主役ではない。ご飯だけでということはあり得ないし、おしんこだけというのもちょっと物足りない。でも白いご飯というのは主役じゃないけど基礎みたいなもので、建築でいうとコンクリートの基礎工事みたいなもの。これがしっかりしていないといくら上物を飾っても落着かない。  おしんこもそうで、主役ではないけど白いご飯の助手というかアシスタントとしてじつに有能な働きをしていて、たとえばどこか料理店へ行っていくらタイとかエビが出てきても、このちょっと出てくるおしんこがダメだと、もうそれだけでがっかりする。  まして最後のとなると、この点はゆるがせに出来ない。  ぼくの場合この二点セットが充実したら、あとはメインディッシュはタラコの焼いたのでもいいし、マグロの味噌漬けの焼いたのでもいい。あと、おしたし類もやぶさかではないですね。そしてお茶。  お茶はどうしても欲しい。むしろ最後に欲しいのはお茶だともいえる。そのお茶のためのご飯とおしんこというわけで、お茶はやはり寿司屋のお茶みたいにたっぷりとしたやつ。歳をとると、食事もさることながら食後のお茶がいちばんしあわせである。そうだ、そのあとにもう一つ、楊枝が欲しい。美味しい物を食べてもうこの世におさらばでいいんだけど、歯の隙間に挟まったままでは気分が悪いので、最後の最後はやはり爪楊枝ですね。何だか欲しいものばかり書いてしまった。 [#改ページ] [#1字下げ]あとがき[#「あとがき」はゴシック体]  毎年夏に外骨忌というのがあって、東京の染井墓地に何人か集っている。ぼくは歳上の方だが、嬉しいことにこの会にはまだ歳上がいる。あれこれ雑談しながら物忘れの話になってきた。その場の最長老はO沢さんだったが、そのお話によるとまず固有名詞を忘れる。これはもちろんよくある。 「えーと、ほら、あの俳優の名前、何だったか……」  というやつで、ぼくなんかもう群発している。しかしそれが進むと、普通名詞を忘れるようになるという。  普通名詞、つまりヤカンとかメガネとか、普通の名詞。つまり物の名前。  これはまだぼくにはない。あっても気がついていないのか。いや、まだないと思う。ヤカンを忘れたらどうなるだろうか。 「ほら、そこの、丸い容れ物、把手のついた、その、あの……」  というふうになるのだろうか。ケイサツなんて忘れたらどうする。 「この間うちに、あの、ピストル持った人が来てね……」  そのピストルも忘れて、 「あの、どん! て撃って人を殺す、ほら、何だっけ……」  もうぜんぜんわからない。でもそんなもんじゃなくて、名詞の次にはこんどは形容詞を忘れるそうだ。これもよくわからない。 「この間面白いことがあって……」  というときの「面白い」が思い出せずに、両手をふわふわさせて、 「あの、笑ったりする、何て言ったっけ……」  なんて、本当にそうなるのだろうか。  O沢さんがいうには、最後には動詞を忘れるという。これは凄い。飛行機が空を飛んでいる、の「飛んでいる」が出てこなくて、 「飛行機が、あの上の、青いところを……」  となればいいが、形容詞や名詞はもう既に埋没してるんだから、 「あれが、あの、あっちを、こう……」  となって、そこまで行くと凄いことだ。O沢さんがそうだというのじゃなくて、O沢さんが若いときにある長老に聞いた話だそうである。凄いなあ。  まだ動詞まで忘れるということの実感はもてないが、しかし考えてみて、最後まで残る言葉というのは「どうも」じゃないかと思う。それから「ちょっと」とか「いや」とか「うん」とか。その辺が最後に残る言葉、言葉というより相槌というか、反応みたいなもので、 「はははは……」  というのも最後まで残りそうだ。  そんなわけで「老人力」の「㈪」であるが、㈰の次が㈪だということは、まだちゃんと記憶にある。㈪の次が㈫になるかどうか、数の上ではそうだが、老人力の場合は㈫まではいかないというか、㈫があるならまた別のことの㈰をした方が面白そうだ。  人生というのは物じゃないんで、残したりできない。日々食べて、感じて、エネルギー変換のそのものである。我思う故に我ありと、昔の哲学者はいったけど、この世の半分以上は人生だといった方が、わかりやすい気がする。あるいは世の中の八掛けが人生だとか。  何ごとも百パーセントはよくない。人間には百パーセント依存症というのがあって、いやまた理屈がはじまるのでやめておくが、野球の打率だって良くて三割、勝率だって良くて五割ちょっとというのが現実である。相手もいることだから。 [#2字下げ]一九九九年八月十一日 [#地付き]赤瀬川原平 [#改ページ] [#1字下げ]文庫版あとがき[#「文庫版あとがき」はゴシック体] 『老人力』がいよいよ文庫本になった。  本にも年齢があり、文庫本になるということは、人間でいうと還暦を迎えたようなことではないか。  ふつうはいまは、まず雑誌連載からはじまる。それが人間でいうと二十代か三十代のことだと思う。そこでいろいろ突っ走ったり、人から意見をいわれたりして、その連載がひと通り終ったところで、うまくいくと一冊の本にまとまる。人間でいうと部長クラスか。ぼくは会社勤めをしてないので細かくはわからないが。  その本が何とか売れて、再版されたりして、まあ何とか、そこそこ、といわれながら年月がたつと、ぼつぼつ文庫本に、という段取りとなる。  赤いちゃんちゃんこである。野球人生でいうと殿堂入りだ。いや、いまはそこまではいかないか。  むかし、本当の文豪が生きていた時代には、文庫本になればもう一生大丈夫、とまでいわれていたそうだ。いまはとてもそういう世の中ではない。  でもいちおうの一区切り、生き馬の目を抜くという現役は引退の、会社でいうと定年、そうだ、いまの時代の文庫本というのは、定年退職した後の天下りの就職なのか。よくある会社相談役。  この『老人力』は単行本のときから既に、南伸坊装幀の赤いちゃんちゃんこを着ていた。いわば還暦をもってデビュウしたわけで、このたび文庫本になるというのは二度目の還暦である。  その間、流行語大賞とか、腰を痛めたりとかいろいろあったが、何しろデビュウ直後の思わぬ大ブレイクで、世間的には何か慌てて理解されてしまったフシがある。本当はブームに乗せられて知るという形ではなくて、それぞれの人生のぼんやりした空白時に、ふと気づいて欲しいのが老人力のテーマなのだが、そういう呼吸みたいなものがちょっと置き去りにされてしまった感がある。それが文庫本となって、ブームとは関係なく、つれづれなるままに読んでもらえるのは大変嬉しい。  この間、急激なブームのお陰で、講演会にあちこち呼ばれたりして多忙を味わったが、いちばん驚いて感動したのは、この『老人力』の中国語版の出版である。  台湾の出版社から話があったことは筑摩書房経由で聞いていたのだろうが、忘れていたらしい。ある日ソフトカバーの本が送られてきて、 [#ここから2字下げ] 暢銷43萬冊…… 轟動日本「話題」暢銷書冠軍!! 「老人力」 赤瀬川原平〔著〕 [#ここで字下げ終わり]  とあるのでびっくりした。え!? 何だ、これは、というので目がまん丸くなった。  表紙がいい。どこかの海辺の砂浜に立つ大小の人物。そのジャンパー姿の老人が子供の肩を抱いて、遠く空の彼方を指さしている。 (ホラ、あれが老人力だよ)  とでもいっているような場面。当事者としては照れてしまってとてもそこまでは出来ませんよというようなデザインを、堂々と印刷している。何だか嬉し恥かしの気持でぞくぞくした。これは必見に値する。  ページをめくると、もちろん漢文であるから漢字だらけ。しかしそれが表意文字の有難さで、何となく読める。たとえば 「老人力滿載的救護車」  路上觀察學會乃是老人力的發祥地——或者説,是發祥會地……  とあれば、何となくわかるでしょう。第六章の「老人力満タンの救急車」の項である。こちらは著者だから当然だけど、いちど読んで知っている文章が中国語になっているのだから、その分理解しやすい。  見ていくと、写真キャプションやあとがきまでもきちんと翻訳されているようで、たとえばあとがきの最後、  ……於〈ちくま〉上連載時,頗爲麻煩編集輯部的祝部陸大先生・發行單行本時由松田哲夫負責,裝幀委由南伸坊君相助、三餐則有頼我的※[#「口/力」、unicode53e6]一半尚子時時費心,在此一併致謝。  となっていて、じつにきちんとした、真面目な翻訳だと想像された。  不思議なのは、これだけちゃんと、字も大きく、写真まで原本通りに扱っていながら、全体は日本語の原本よりもスリムになっている。漢字だけの漢文はそれだけ情報が濃縮されて詰まっているということだろう。  発行は台北の林鬱文化事業有限公司。『老人力』の漢文を読みながら中国語を勉強するのも一興である。  翻訳の内容については、中国語のわかる人に聞いてみないことにはわからない。老人力というような、油断するとすぐに誤解されてしまいそうな考えが、どこまで翻訳できているのか、非常に興味あるところである。  世の中いろいろと面白いことがある。   二〇〇一年七月二十二日 [#地付き]赤瀬川原平 *初出一覧[#「初出一覧」はゴシック体] おっしゃることはわかります「ちくま」1997. 6 物忘れの力はどこから出るのか「ちくま」1997. 7 「あ」のつく溜息「ちくま」1997. 8 食後のお茶の溜息「ちくま」1997. 9 老人は家の守り神「ちくま」1997. 10 老人力満タンの救急車「ちくま」1997. 12 下手の考え休むに似たり「ちくま」1998. 1 老人力胎動の時期を探る「ちくま」1998. 2 ソ連崩壊と趣味の関係「グラフィケーション」1998. 2 中古カメラと趣味の労働「ちくま」1998. 3 朝の新聞を見ていて考えた「ちくま」1998. 4 眠る力を探る「ちくま」1998. 5 東京ドームの空席「ちくま」1998. 6 老人力は物体に作用する「ちくま」1998. 7 タクシーに忘れたライカ「ちくま」1998. 8 年に一度の健康診断「ちくま」1998. 9 宵越しの情報はもたない「広告批評」1998. 1 クリアボタンのある世の中『水』(第三セクター四万十ドラマ)1997. 3 転んでもタダでは起きない力「ちくま」1999. 4 物理的に証明された老人力「ちくま」1998. 10 テポドンと革命的楽観主義「ちくま」1998. 11 眠っちゃうぞ「ちくま」1998. 12 コンニャク芋の里「オール読物」1999. 1 田舎の力を分析すると「ちくま」1999. 1 外房の離れ小島の老人力「ちくま」1999. 2 老人力という言葉の乱れ「ちくま」1999. 3 飲む食う書くの日記「文藝春秋」1999. 4 背水の陣の目にかこまれて「ちくま」1999. 5 お墓の用意「ちくま」1999. 6 パリのホテルでバタンキュウ「ちくま」1999. 7 宇宙の寄り道「ちくま」1999. 8 入る自分が消えていくお風呂「ちくま」1999. 9 最後に欲しいもの「M-Club」1998. 6 赤瀬川原平(あかせがわ・げんぺい) 一九三七年横浜生まれ。画家。作家。路上観察学会会員。武蔵野美術学校中退。前衛芸術家、千円札事件被告、イラストレーターなどを経て、一九八一年『父が消えた』(尾辻克彦の筆名で発表)で第84回芥川賞を受賞。宮武外骨、3D写真、老人力などのブームの火付け役でもある。著書に『超芸術トマソン』『ちょっと触っていいですか』『ライカ同盟』『外骨という人がいた!』『老人とカメラ』『中古カメラあれも欲しいこれも欲しい』『新解さんの謎』『優柔不断術』、写真集に『正体不明』など多数。 本作品は筑摩書房より刊行された『老人力』(一九九八年九月)と『老人力㈪』(一九九九年九月)をあわせて、二〇〇一年九月にちくま文庫に収録された。